リスクの社会的構成と公衆衛生

リスクの社会的構成についてのアメリカとフランスを比較した論文を読む。
 病気を避けたいのは、どの時代でも同じである。しかし、「なぜ」ある病気のリスクを避けるのかというロジックは、時代によって、文化によって、状況によって大きく変わってくる。母親は胎児への悪影響を防止するためにタバコを吸わないように説得され、オフィスワーカーは周りの個人の環境権に配慮して分煙する。潜在的な危険がリスクになるためには、文化の装置を用いて社会的に構成されて人々に避けられることが必要である。そして、人々があるハザードを避けるようになるのは社会的行為の変容であるから、その過程においては広い意味での政治の装置が大きな役割を果たす。つまり、リスクは文化や政治の構造によって異なる仕方で構成され、それに応じて、人々がリスクを避ける度合いも変わってくる。この最後の部分に着目して、公衆衛生の有効性を決める要因の一つとして、どんな政治・文化に媒介されてリスクが構成されているかに着目した論文である。
 議論のコアは、アメリカとフランスにおける、19世紀末から20世紀初頭の母性保護運動と、20世紀後半の反タバコ運動の比較である。いずれの時代・どちらの運動においても共通に、アメリカ的な特徴・フランス的な特徴が明確に観察され、しかも、その特徴は、米仏それぞれの他のリスク構成の仕方にも共通して見られるという。ちょっと意地が悪い仕方で著者の主張をまとめると、アメリカもフランスも、互いに異なっているがそれぞれの国では100年間変わらないリスク構成の仕方を激動の20世紀を通じて保ってきて、しかもこの様式は、母性保護だろうが反タバコだろうが原発事故だろうが変わらない、というのである。
 この手の議論は、反証を上げて反論するよりも、インスピレーションを求めて読むべきである、反論するとしたら、同じくらい大きな(そして反証がたくさんある)枠組みを出すべきだというのが私の持論である。そう思って読むと、この論文はとても面白いことを、分かりやすい仕方でたくさん言っている。(そう思わないで読むと、アメリカやフランスの医療政策の専門家にとってはストレスが溜まるだろう。)最も興味深かったのは、国家の健康政策と、よりよい健康を求めた社会運動という二つのアクターのあいだの力のバランス、という視点である。フランスの母性保護政策は、普仏戦争の惨敗を受けた人口減少の恐れから始まり、国家が強力なイニシアティヴを取った。中央集権・トプダウンのフランス式のやり方である。アメリカの反タバコ運動は、国家の外にある団体が世論の高まりを通じて国家に働きかける方式を取った。草の根の運動が政治に影響を及ぼす回路が確立しているアメリカ式のやり方である。この違いに応じて、ハザードになる行為が何にとってリスクなのかという理解が変わってくる。無知とだらしなさから子供を死なせてしまうフランスの母親は国家に対して害悪を与え、公共の場所でタバコを吸って受動喫煙を周囲に強いるアメリカの喫煙者は非喫煙者の権利を侵害していることになる。一方、現代のフランスの反タバコ運動と、20世紀の前半のアメリカの母性運動が成功していないのは、類似の構造的な理由による。
 日本の母性運動、あるいは、伝染病を避けることという一見「原始的な」行為そのものが、どのように構成されていたのか、ということも、腰を据えて考えなければならない。

文献は Constance, A. Nathanson, “Disease Prevention as Social Change: Toward a Theory of Public Health”, Population and Development Review, 22(1996), 609-637.