日本のコレラ研究

 ポリッツァーの『コレラ』を読む。
 1954年の『ペスト』に次いで、1959年にWHOから出版された金字塔。『ペスト』は約700ページ、『コレラ』は1000ページを超える。自身の観察を織り込みながら、コレラについて執筆当時までの膨大な欧文文献を吟味して書かれた名著。 特に、Epidemiology の章は、きっとこれから何度も読み返しては、新しい発見をすることになるだろう。 こういった名著について総合的に書くには、ブログの読書日記という場はふさわしくないので、一つ面白かったことを記す。今から80年ほど前の、日本の研究者たちのコレラの伝播に対する態度である。
 ポリッツァーは(当然)日本語ができないので、日本のコレラについては、高野六郎が国際連盟から出版したStudies of Cholera in Japan (1926) に依拠しているところが大きい。私は高野によるこの書籍を読んでいないが、ポリッツァーの記述から伺える範囲では、高野たちは、疫学と実験室での本格的な研究を積み重ねてこの書物を書いている。特に重視されているのは、コレラ菌が海水で長期間生息できることを証明する実験である。こういった貴重な実験から、「日本の防疫は完璧であり、日本におけるコレラの発生は、コレラ患者が乗船してる船が海水を汚染することによる」という結論を高野たちは引き出している。
 高野たちのこの結論がどの程度あたっているは、この本を読んで、実際に色々な証拠を吟味してみなければわからない。しかし、高野たちの議論には、日本が文明国であることをことさらに強調したい思惑が、あまりに露骨に透けて見える。(疫学的「事実」の社会的構成)そして、ポリッツァーもそれを感じとっていたような気がする。高野たちのこの議論を紹介する時のポリッッツァーの筆致には、政治的な思惑が見え見えの議論を聞いたときに、反論する根拠こそないけれども、「なんとなく危うい」と感じた学者の本能的警戒心のようなものがある。英語の語感が翻訳だとうまく伝えられないが、ポリッツァーは「日本の研究者たちは海水汚染が、コレラの流行にとって最も危険であると主張している」(強調はブログ筆者)と冷淡に述べ、高野の文を引用しているが、その引用は、高野たちの思惑を透かしだすようなものになっている。

Cholera in Japan has always been thought to be due to the poppution of sea-water by ships from abroad and by carriers and cholera patients landed in Japan. (中略) The quarantine on land is almost complete. (中略) Thus cholera in Japan is spread directly or indirectly by polluted sea-water.

・・・ この引用を読んで高野の主張に納得する読者は少ないだろう。むしろ「割り引いて聞いておこう」という気になるだろう。ポリッツァーは、そこまで計算していたような気がする。

文献は Robert Pollitzer, Cholera (Geneva: WHO, 1959).