NYの検疫

1892年のニューヨークで起きた、伝染病の検疫をめぐる事件を詳細に研究した書物を読む。
 1892年のニューヨーク市は、伝染病が上陸する脅威と緊張を二回経験した。一度目はマッシリア号によって持ち込まれ2月から春にかけて市内の Lower East Side で発生した発疹チフスであり、二度目は8月から9月に到着した大西洋横断汽船の船中におけるコレラである。前者は患者を隔離病院である Riverside Hospital (of Typhoid Mary’s fame) へ収容することで200人の患者(うち死者24人)を出して4月には終息し、後者は乗客に計130人ほどの死者、市内で12人ほどの患者を出して終息した。アウトブレイクの規模としてはどちらもそれほど大きくはないが、これらの感染症の流行は重要な意味を持っていた。どちらも、危機管理のターゲットになったのが、ロシアや東欧からのユダヤ人移民であった、ということである。あたかも、増加し続ける移民、特に伝統的にアメリカ移民の中核であったイギリスを中心にする西ヨーロッパからの移民ではなく、東欧やイタリアからの移民をめぐる論争が激化していた時期であった。外国から持ち込まれた二つの感染症をどのようにコントロールするべきかという問題には、東欧ユダヤ人の移民を受け入れるべきかいなか、そしてアメリカのアイデンティティとはないか、という政治的な問題が濃厚な影を落とすことになる。このテーマを中心に、細菌説と環境説、連邦政府と州の自治の関係なども絡み合った様子がヴィヴィッドに描かれている。
 一方で、失望させられたのは検疫された側の人々への注目である。著者は「検疫の向こう側」の人々の経験に光を当てることがこの書物の大きな目標であり特徴であると謳っている。確かに、非常に重要な、面白い問題である。しかし、それを論じた部分は、この書物の中でそれほど多くない。そしてその部分は、彼らの悲惨な境遇を描くこと以上のものではない。医者の歴史から患者の歴史へと医学史の視点を移すと謳っている書物には、患者への同情や、弱者や社会的マイノリティの患者の権利の確立への決意表明に終始しているものが少なくない。この書物も、そういったタイプの「患者の歴史」を実践しているものでしかない。検疫の資料を使って充実した患者の歴史を書くことは不可能ではないだろうが、やはり無理があるのではないかと思う。

文献は Howard Markel, Quarantine! East European Immigrants and the New York City Epidemics of 1892 (Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 1997).