アメリカ南部の黄熱病

 19世紀後半のアメリカの黄熱病対策を研究した書物を読む。
 同じ著者がマラリアについて書いた優れた書物を読んでいて期待していたが、その期待にたがわない高い水準の研究書だった。病原体も感染経路も分かっていない状態で、さまざまなアクターの利害のせめぎあいの中から、アメリカ南部の黄熱病の対策が決められてくる力学を丁寧に描いている。18世紀の終わりにはフィラデルフィアなど北部でも大流行をしていた黄熱病は、19世紀の後半には南部に限定され、南部の諸州や都市に大きな被害を出していた。この病気への対策をめぐって、感染か環境かというおなじみの論争が展開され、また(ほぼ)同じ病因論をとるものたちの内部でも、さまざまな利害やイデオロギーが絡んで、複数の政策案が競合していた。連邦政府と州政府、カリブ海から黄熱病が頻繁に移入される沿岸部の港町(特にニューオーリンズ)と沿岸部から黄熱病が伝播する内陸部の諸都市、貿易を個人の責任と捉えて衛生への支出を最小にしたい州政府と北部の成功にならって衛生対策を進めたい医者たち、黄熱病の流行とそれに伴う交通遮断によって損害をこうむるビジネス界などの対立と合意形成が、記述の中心をなしている。
 特に面白かったのは、ビジネス界が積極的に検疫と衛生改善に貢献したこと。ハンフリーの記述では、ニューオーリンズヤメンフィスの1880年代の公衆衛生は、ビジネス界の影響を強く受けながら進展し、ローカルな地域の防疫から南部一帯の防疫へと目標が変わってきたありさまが見て取れる。公権力による検疫と自由な交通を尊重するレッセフェールの衛生改善が対立するこれまでの枠組みと違うモデルである。もうひとつは、「消毒検疫」が新しい合意形成の鍵を握る対策であったことである。石灰で洗うとかガスでいぶすとか、起源としては少なくとも中世のペストまでたどることができる手法なので、古くからある伝統的な手法の一つであるという思い込みが私にはあった。日本のコレラやインドのペストで、見境なく石炭酸をぶちまけるような方法を見ていて、粗雑な防疫策であるというような先入観を持っていた。しかし、南部の黄熱病対策においては、原理としては伝統的なこの手法は、検疫の日数を少なくすることでビジネス界にアピールし、新設備の建設によって科学的な装いをとって、あらたに合意を形成できる「新」技術であった。伝統的な手法の微調整とみえるものが、病原体と感染経路の発見以前においては、決定的に重要だったのである。

文献は Margaret Humphreys, Yellow Fever and the South (Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 1992). 同じ著者がマラリアについて論じた書物は、Malaria: Poverty, Race, and Public Health in the United States (Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 2001).