エジプトのトラコーマとナポレオン戦争


 エジプトの「眼炎」が、当地に出兵した諸国の軍隊に流行したありさまを調べた論文を読む。

 1932年に医学雑誌に出版された医者による疾病史の論文である。眼科の専門家が、昔の記述を読んで遡及的診断を行い、歴史上の感染経路を確定したものである。最近のいわゆる「文系」の医療と疾病の歴史家たちには人気がない手法だが、たとえ流行遅れであっても、こういった方法を取らなくてはわからないことが、日本の疾病史にはまだまだ山のようにあると私は考えている。

 今回読んだ論文は、その手の論文の中でも、特別優れたものだった。組織的に渉猟した文献が多く、そこから分かりやすく説得力がある伝播のシナリオが導かれている。19世紀の前半に、ヨーロッパ各国の軍隊、あるいは軍隊と密接に関連がある施設で、眼病の大流行があった。この起源は、18世紀末から19世紀初頭にかけてエジプトに出兵したフランス、イギリス、トルコの軍隊が、現地で眼病に感染して、それが広まったからだ、というのが、この論文の主張の骨子である。例えばナポレオンのエジプト遠征では、1798年に上陸したフランス軍の間には、数ヶ月のうちに眼病が広がった。ドゼー将軍が率いた軍は3000人のうち1400名が眼病にかかったという。イギリス軍も、エジプトに上陸するとすぐにこの病気に悩まされている。当時の医者の記述には、この病気が伝染性のものであるという観察が多く含まれている。また、エジプトから帰還したイギリス軍が、他の部隊や、民間人(Royal Military Asylum)の間で流行を起こしたことも記されている。この病気は、ナポレオン戦争の大規模な軍隊の動員に乗じて、イタリア、ハンガリー、オーストリア、プロシア、スウェーデン、ロシアに広まった。ナポレオン戦争の諸国の軍隊は、エジプトからもたらされた流行性の眼病に冒されていたわけである。

 原因を特定する議論で、気になることがあった。特に重症化するものは淋菌が原因であるという推察である。淋病というのは梅毒に比べて迫力がないが、近代日本の娼妓健康調査をぱっとみた限りでは、梅毒よりもはるかに罹患率が高い病気であるという印象を持っている。この淋菌の広がりが、日本に多かったトラコーマと関係がないだろうか。近世から近代にかけて日本を訪れた外国人の多くが、日本人には眼病が多いと記している。手元にある資料をぱっと調べた限りでは、ツンベルク(日本滞在1775-6)とポンペ(日本滞在1856-62)が、そのように記している。 日本に眼病が多いと記述されるようになったのはいつからか、組織的に調べてみる価値がありそうだ。

文献はMax Meyerof, “A Short History of Ophthalmia during the Egyptian Campaigns of 1708-1807”, The British Journal of Ophthalmology, 1932 March, 129-152.

画像は、初期の「大学目薬」(明治32年発売)。画像は、「東京都家庭薬工業共同組合」のHP、「伝統薬ロングセラー物語」より頂いた。