パンデミック・インフルエンザ

アルフレッド・クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』を読む。

 研究者の多くは、第一次世界大戦の末期にインフルエンザが大流行したことを耳にしたことがあるだろう。しかし、その実態についてなにがしかの知識を持っているものは多くないだろう。このことは、必ずしも歴史家たちの怠慢とばかりはいえない。この大流行はヨーロッパでもアメリカでも、「忘れられて」きたからである。おそらくアメリカに起源を持ち(インフルエンザのパンデミーは通常ユーラシアの内陸部に起源を持つ)、1918年の春から19年にかけて全世界で3000万人以上の死者を出した史上最大の流行病であり、第一次世界大戦における戦死者の合計よりも多くの犠牲者を出したにもかかわらず、この疫病は形を成して記憶にとどめられることがなかった。同時期の大戦戦没者の名前が記念碑に刻まれ、同じように大規模な疫病であった中世の黒死病が、「ペスト塔」の建立を通じて記憶されたのとは対照的である。1918-19年のインフルエンザは、家族を失った個人の記憶の中に分散したままであり、流行が過ぎ去ると、公的な世界の記録をつけるものたちはそれを振り返ろうともしなかった。誰もが憶えているのに、その記憶が公けに語られることがない不思議な忘却が長く続いていた。
 その忘却の状況を変え始めたのが、本訳書の原著初版 Epidemic and Peace, 1918 (1976) である。アメリカにおける1918-19年のインフルエンザの流行の状況をつぶさに研究し、クロスビーのトレードマークである流麗な筆でつづった本書は、出版されてすぐに医者や医学史家・歴史家たちの高い評価を得て、インフルエンザ大流行の歴史研究を刺激する大きな役割を果たした。ここまでは、新しい主題を発掘した優れた研究書がたどる普通の道である。しかし本書は、その後に激変した世界の疾病の状況に対応して、著者自身も当初は予想していなかったう運命をたどることになる。1970年代後半から始まって世界に広がったAIDSのパンデミーが与えた衝撃に対応して、本書は1989年にAmerica’s Forgotten Pandemic と改題されてケンブリッジ大学出版局から出版された。そして、2003年にケンブリッジ第二版が出版された時には、当初はインフルエンザではないかと疑われたSARSが惹き起したパニックが世界を襲っていた。(本訳書はケンブリッジ第一版の翻訳であるが、「日本語版への序文」はケンブリッジ第二版の序文と内容は重なっている。)すなわち、本書の出版・改版の過程は、この30年の現代世界の疾病をめぐる激動を刻み込んでいるのだ。感染症は克服されたと信じられていた時代から、性感染症の急速な蔓延を経て、インフルエンザと類似の呼吸器性感染症が世界を脅やかす時代へと急速に移り変わっていくに連れて、本書が扱った1918-19 年のインフルエンザ大流行も、忘れられた事件を発掘する学問的な興味対象から、現代世界への切実な脅威の前触れへと変貌していったのである。「全ての歴史は現代史である」という言葉が、これほど印象的な仕方であてはまる医学史の書物は他に見当たらない。

文献は A.W. クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』西村秀一訳(東京:みすす書房、2004)