ロシアのコレラ



 明けましておめでとうございます。今年もよろしく。

 昨日に引き続いてコレラである。今回は19-20世紀のロシアである。

 ロシアのコレラは、イギリスやフランスやアメリカと違うパターンを示している。イギリスやフランスのコレラは、一年か二年の大きな流行があって、流行と流行の間には患者が出ない。ガンジスのデルタが典型的な常在だとすれば、イギリスは襲来の典型である。一方ロシアのコレラは、一度侵入すると、数年、場合によっては10年や20年継続する。一回目こそ1823年の一年だが、その後は、二回目の1829-33年(または38年)、三回目の1847-59年、四回目の1865-1873年、五回目の1892-1896年、六回目の1902-1923年と、それぞれの流行が数年にまたがっている。(ついでに言うと、長い流行の折には、1853-55年のクリミア戦争や、1904年から始まる日露戦争、第一次大戦、ロシア革命などの戦争が起きている。)

 一つ一つの流行が長かったのには、いくつかの理由がある。まず、ロシアの民衆が貧しく、衛生状態が劣悪だったことが重要だろう。この論文では具体的にはこれが何なのかは説明されていないが。もう一つの重要なメカニズムは、コレラの侵入口であるロシアの南側の地域と、人口の集積地である北の都市が、運河で結ばれており、南と北をシャトルコックのように流行波が往復したことである。インド・中央アジアとの接点であるカスピ海沿岸のアストラカン(後はトルコからオデッサ経由のルートや、満州からシベリアへというルートも開かれたが)は、ヴォルガ川などの水上交通のルートで、モスクワ、さらにペテルスブルクと結ばれていた。このルートに沿って流行は北上し、モスクワなどに到達する。モスクワやペテルという人口の集積地で、コレラは越冬し、春になって川の氷が溶けて水上交通が再開されると、今度は逆にモスクワやペテルから南下してアストラカンまで到達する。この伝播のパラダイムは、水上交通と大都市の重要性を物語っている。しかし、1910年以降、都市の衛生状態が改善されても、交通が盛んになった地方部に深くコレラが侵入することになることを考えると、侵入口と大都市の二極モデルだけに注目するのは十分ではないだろう。 

文献はPatterson, K. David., “Cholera Diffusion in Russia, 1823-1923”, Social Science and Medicine, 38(1994), 1171-1191.
画像は、この論文に収録された、1830年のアストラカン→モスクワと、1831年のモスクワ→アストラカンの流行の往復の様子を表した地図二枚。