日常生活の肯定

 近代的自己の形成の大著を(少し)読む。

 しばらく前に、「近代的自己と衛生」などという大問題について、あたりをつけようとしたことがあって、時間と能力を考えると読めるわけがない本をむやみに借り出した。ハッキングの本を借りたのも、実はその流れだったことを思い出した。秘書に借り出してもらった本の中でもひときわ厚いのが、現代の大御所哲学者であるチャールズ・テイラーの Sources of the Self である。さすがに当代一流の哲学者の一人だけあって、深くて面白いのだが、丁寧に議論についていかなければならない600ページの本で、しかも仕事に直結しないものを、暖炉の傍でパイプをくゆらしながら読む贅沢はできない。いくつかの章だけ読んだ。

 一つ参考になったのが「日常生活の肯定」(affirmation of ordinary life) とテイラーが呼ぶ現象である。労働と家族生活、生産と再生産は、道徳のカテゴリーの中でごく低く見られてきた。戦士の倫理、公人の倫理、神に仕える宗教人の倫理に較べて、日常生活の行動規範など、取るに足らないものであった。近代の功利主義が日常生活を肯定したのは、価値のヒエラルキーの中での序列を破壊する意味合いがあった。同じことが「健康」についても言えないだろうか?医学書や衛生書を読んでいると、健康に価値を置くのが当たり前に見える。しかし、健康重視というのは、サド侯爵の還元主義がそうであったように、場合によっては革命的ですらあった。そのあたりを、書き始めた本では触れたいと思っている。
 
 もう一つ面白かったのが、Our Victorian Contemporaries と題された章である。(ちなみに、これを素直に訳すと「我らヴィクトリア朝の人間」になるだろう。)宗教から科学への変化を論理的に連続したものとして説明するところも読み応えがあったが、新しい道徳意識が、自分たちの時代の歴史的な位置づけと不可分であるというところが面白かった。(広義の)ヴィクトリア朝のイギリス人たちは、奴隷解放のレトリックに最も顕著に現れるように、自分たちの時代が、苦痛の軽減を虐げられた人々に普遍化したという点で、どの時代よりも人道主義的であると信じていた。歴史的な優越への希求が、ヴィクトリア朝の改革のかなりの部分を駆動した。(ちなみに、精神病院の改革にも同じことが言えるだろう。)日本の衛生改善の背後には、列強に追いつくという文明の地理学があると同時に、道徳的なエピックもあるだろう。そのあたりが、これまでの研究では意外に注目されていない。

文献は、Taylor, Charles, Sources of the Self: The Making of the Modern Identity (Canbridge, Mass.: Harvard University Press, 1989)