江戸時代の死体


 「ご恵与された論文」を少し前にブログで取り上げたが、これはなかなか良い仕組みかもしれない。色々な論文やご著書などを頂いたときに、お礼を書くわけだけれども、読まないのにお礼は書けないなどという妙な良心が働く。お礼の葉書を机に置いて大慌てで目だけ通すから、ほとんど内容は分かっていないし頭にも入っていないから、まともなことは書けない。結局、私にとっても、せっかく送ってくださった著者の方にとっても時間の無駄である。少し時間を置いてもいいから、ブログで取り上げることにすると、私も落ち着いて読めるし、著者の方も、急いで書いた葉書一枚よりは、まとまったレスポンスを得ることができる。

 今回は、数年前の『思想』でデビューした気鋭の歴史社会学者の香西さんから頂いた論文である。香西さんの一連のお仕事は、「近世の身体」をめぐる権力から「近代の身体」をめぐる権力への転換を、死体の処置という視点から検証すると同時に、現代の献体や臓器移植をめぐる言説を歴史的に位置づけようとする野心的なものである。『思想』の論文もそうだったが、今回頂いた論文も、とても面白かった。議論のコアの部分は、近世において存在した死体の利用法として、刑死体を用いた殿様の刀の試し切りと、人間の肝は頭蓋骨などを薬品用に用いるという行為があったことを挙げて、このどちらも明治期には「残酷」なものとして禁じられたのに、同じようなスティグマが近世にはまとわりついていた解剖は、明治政府の医学教育の西洋化の流れで制度化された、という流れで捉えられたシナリオである。「死体利用のルールにおける新しい構造化」とでも表現できるだろうか。

 解剖学の歴史という、日本の医学史の中でも最も緻密に調べ上げられている(と想像している)領域と重なるところで仕事をするときに、これまで読まれていないジャンルのテキスト群や問題を探してくる、それらに基づいてなじみ深いテキスト(例えば杉田玄白)を読み直すというのは、学問を進歩させる王道だと思う。特に、人体を薬品に使う話は、あまりこの論文では突っ込んで話されていないが、古いところでも新しいところでもマテリアルは沢山あるだろうし、西洋医学の歴史や文化人類学の議論とも共鳴する、とても豊かな領域だと思う。とても面白い論文を送ってくれて、どうもありがとう。 

文献は、香西豊子「<残酷>と<幸福>と-解剖体に見る<身体>の歴史社会学」『生物学史研究』No.75(2005), 43-54; 香西豊子「屍体をたたえる-ドネーション言説の現代的展開に関する一考察」『生物学史研究』No.75(2005), 99-1
文中で言及した『思想』論文は、香西豊子「解剖台と社会 - 近代日本における身体の歴史社会学にむけて」『思想』947号(2003)
画像は山脇東洋『蔵志』