患者の物語の文学的分析

 19世紀の結核患者の日記を分析した論文を読む。

 医学史の中でわりと新しいジャンルに、患者が病気・身体をどう認識したかを問う社会史研究とでも呼べるものがある。このジャンルのとても有名な本としては、バーバラ・ドゥーデンの『女の皮膚の下』などがある。日本語の論文集では、栗山茂久・北澤一利『近代日本の身体感覚』などが、この問題意識に近いところで編まれている。ちなみに、どうせばれていることだから書いてしまうけど(笑)、この論文集には私も寄稿しています。

 この手法で研究をするときに、「患者が書いたもの」というのがコア資料になることが多い。使う資料によって色々なタイプがあるけど、患者による病気のナラティヴを読み解くことになる。そのときに、ナラティヴに何が書いてあるかという内容分析と、どういう表現形式を使っているかという形式分析の双方が可能である。後者の手法が重要なことは分かっているけど、これは文学研究に限りなく近い手法で、歴史学者が正面から使うにはちょっと勇気がいる。それで、お手本になるような論文があるといいなと長いこと思っていたのだが、直接の関係はない仕事のために雑多な論文を読んでいるときに、あった!という感じの傑作に出会った。

 分析しているテキストは、1830年代の末にマデイラで結核療養をしたエミリー・ショアというインテリ女性が書いた日記である。彼女は結局1839年に死ぬが、死の二週間前まで日記はつけられている。このマテリアルを、洗練された文学研究者が読むと、とても面白いことがわかる。まず、マデイラは結核療養の人気リゾートだったことも手伝って、ショアは、他の患者の苦しみを描いて、そこに自分の病気像をトランスファーする。そこでは病気は、自己の病ではなく、グループアイデンティティとして理解される。私は初めて聞いた言葉だが、こういう他人の人生に自伝を重ねる形式をautobiography にならって alterbiography というそうだ。(ついでにいうと、ヴィクトリア朝の女性にはこの傾向が顕著だとのこと。)一方で、病気の進行とともに、病気を描く形式が変わってきて、「身体化された諦念」を提供する宗教的な贖罪文学になっていく。この変化が出版を前提としない日記の中で起きている。

 テキストを読み解いていくプラクティカルなヒントも沢山あった。そうか、こういうところに着目すればいいのか!というような「目からうろこが落ちる」感覚である。

論文はGates, Barbara, “When Life Writing Becomes Death Writing: The Journal of Emily Shore”, Literature and Medicine, 24(2005)
同じ著者の、ヴィクトリア朝時代の自殺研究が、『世紀末自殺考』として翻訳されています。