性感染症と生命倫理


 16世紀から17世紀の「感染症の文学」を研究した傑作を読んでいたら、目からうろこが落ちるような指摘があった。文献はMargaret Healy, Fictions of disease in early modern England : bodies, plagues and politics (Houndmills: Palgrave, 2001). 彼女のデフォー「ペスト」に関する論文を以前に取り上げたことがある。

 16世紀の末にナポリに突然現れて、色々な土地の名前を冠して呼ばれたことで有名な病気である梅毒(日本では「唐瘡」と呼ばれた)が、医学・社会・文化にまたがる言説の中心になったことはよく知られている。その中で、夫婦間の梅毒感染、より具体的には、夫から梅毒を移される妻の処置についての倫理的・法的な議論があった。この論議の主役たちはエラスムスとヴィヴェース、人文主義を代表する二人の巨人である。かいつまんで言うと、夫が梅毒に感染していたときに、妻は妻としての義務(夫との性交)を果たす義務があるのか?ということをめぐる議論である。エラスムスに影響された論客たちは、梅毒にかかった夫は妻に性交を要求する権利を失っていると主張した。ある論者の言葉によると、梅毒の夫が行う結婚は、名前の上だけの結婚に過ぎず、妻に対して義務を課す効力を発揮しない。一方で、ヴィヴェースは梅毒やみの夫に対する妻の献身を称えたという。

 19世紀における梅毒と家庭の問題についての議論は有名である。文化史でいうとイプセンの『幽霊』やカレン・ブリクセンなどなど。ジェンダー系の社会史研究はそれこそ無数にあるのだろう。16世紀においても、梅毒は社会問題であると同時に、家庭の構成員の間の関係にかかわる病気だと捉えられていたのは、全くの無知だった。こういった問題の影があるということを知って読んでみると、近代初期の喜劇や風刺に出てくる「梅毒やみ」も違った見方ができる。 Healy の書物、英文学者ではない読者にとっては時々辛いこともあったが、必読の傑作である。

画像は、19世紀の作品。性交のあと、死者の群れに加わる男。