鼠の浄土とガンバの冒険

 柳田国男「鼠の浄土」を読む。文献は柳田国男「鼠の浄土」『海上の道』(東京:岩波文庫、1978)所収。

 鼠の被害がおびただしいため、人間が居住を放棄し、あるいは近づきすらしない島があること。大量発生した鼠が海を渡ること。沖縄や奄美大島では鼠を神格化していること。鼠に忌み言葉を使うこと(「秋茄子はヨメに食わすな」)。そして有名な「おむすびころりん」の昔話に登場する、地下にある鼠の浄土。これらをつなぎ合わせて、鼠もまた「海上の道」を渡って日本列島に現れた動物であり、海の彼方の記憶とその喪失の痕跡が鼠の物語に刻み込まれていることを論じている。博覧強記とやるせない憧れとともに語られる柳田の壮大なヴィジョンとはあまり関係ないが、日本のペストの問題を考える上で、たくさんのヒントになる情報の断片があった。「おむすびころりん」の鼠穴は地下にあるのに、天井の鼠も神格化されたこと。もう一つは島とネズミの関係。もう一つは、1855年の石見の鼠害のときに鼠の買い上げをしたということ。

 話は全く変わるが、島とネズミというとドブネズミのガンバが活躍する『冒険者たち』を思い出すのは私だけではないだろう。アニメにもなっていて、なかなかの名作だそうだけど、アニメは見ていない。岩波少年文庫の分厚い本を小学校4年生くらいの頃に読んだ。平凡な生活から冒険に出る主人公。くっきりと造型されたキャラクターたち。ガクシャの謎解き。最後にヒーローになるダメ男たち。徹底的に二次的なエピソードとして挟まれる主人公の悲恋。(アエネアスからハリー・ポッターまで、少年や男性の冒険譚においては恋は二次的なものでしかないのが「しきたり」である。)少年冒険小説のすべてがそこにあった。しかし、何よりも強烈だったのは、そこに登場した白い首領イタチ「ノロイ」であった。邪悪にして優雅な芸術家、残忍で独創的な天才。場当たり的で出たとこ勝負のガンバとマイホームパパのミズナギドリたちが手を組んで、全知全能の悪魔のノロイを倒せたなんて、全く説得力がなかった。物語がノロイを説得的に葬らなかった以上、ノロイはまだ生きているはずだった。 少年の私はまだ生きているノロイに心底から怯えていて、夜トイレに行けない日が何日も続いた。