近代的自殺は技巧的で茶気がある?

 自殺のリサーチが続いている。待望の大西義衛の論文のコピーがたくさん届く。文献は大西義衛「近代自殺者の動向に就て」『脳』10(1936), No.4, 2-8.

 大西義衛という人物は私はこれまで知らなかったが、戦前から戦後にかけて自殺について多くの論文を書いている、今回のリサーチの中心人物の一人である。それ以外では、児童精神衛生の仕事もあり、また香川県の高松に四国で初めての精神病院を作った医者としても知られている。なお、彼が設立した病院は高松に現存して、歴史研究が光を当てるのをじっと待っている。 

 大西は「親子心中は昭和の日本の産物だ」といった明確な主張をすることを好んだ。当時の進化論に基づく時間性を重視した精神医学者たちの中でも特に、精神病や精神病の気質などの形成における「歴史的変化」を重視した。その彼が、「近代的自殺の特徴」を論じているのが上記論文である。 大西によれば、近代人は「我が所有物たる生命をわが意思によって思うままに処分するのに誰はばかることがあろうか」という意識があるから(フーコーそのものの台詞である)、自殺は恥ずかしいという意識がない。夜陰にまぎれてこっそりというのではなく、むしろ白昼堂々と公衆の面前で自殺することを選ぶ。あるいは、彼らの死は集団的になる。あるいは彼らの自殺には悲しみがない。さすが第一人者だから、色々と面白いことを言っている。その中でも次の台詞は注意しなければならない。

「往時の自殺者にはたとえそれが如何なる動機に因りてなされたとはいえ、何かしら弱者としての同情を勝ち得たものであったのは、主として自殺者の死に対する態度が極めて真面目で純粋無碍でありえたのによる。しかるに、近代自殺者のそれには憐憫はおろかむしろ軽蔑の念すら起さしむるものがある。それ、彼らが自己の生命を扱うこと、さながら花束か玩具を扱うがごとき態度をもってし、そこには衒気や茶気のただよったものがありて、往時のそれのごとく三者の心弦をうつ純情において欠くる所があるに基づく。彼らは死を扱うに著しく技巧的で、その時の気分に多分の茶化味があり俳諧味がある。」

大西が「近代の自殺者」に対して下した診断が当たっているかどうかという話は、実証も反証も非常に難しい議論になるし、少なくとも今回の論文ではしない。私が注目したいのは、当時の精神医学の中での自殺論の第一人者の一人が、彼と同時代の自殺に「むしろ軽蔑の念」を持っていたことである。古えの自殺は正しい自殺であった、今の自殺は正しくないとでもいいたげに。