オリヴァー・サックス

 今回の出張は飛行機の乗り換えがとても多かったので、文庫本を山のようにかばんにつめていった。そのうちの一冊が、オリヴァー・サックスのまだ読んでいない作品だった。オリヴァー・サックス『火星の人類学者』吉田利子訳(東京:早川書房、2001)

 世界的に大人気のサックスの脳神経障害者のストーリーを集めた作品の一つ。ここでは自動車事故の結果、色盲(という言葉は使えなくなったらしいけれども)になってしまった画家、20代の脳腫瘍で記憶障害になった元ヒッピー、突然さまざまな衝動と発作に駆られるトゥレット症候群を抱えて手術をする外科医、40代で白内障手術をして視覚を取り戻した人物、子供時代に去って一度も帰っていない故郷のイタリアの村の細部を記憶して描く画家、天才的な建築画を描く自閉症の少年、自閉症だが成功した動物学者の大学教授の、7人の患者の物語が語られている。

 どれも、正確な科学的な知識に裏付けられていると同時に、科学の成果に対して謙虚で、確実に分かったことと、専門家の間でも意見が分かれていることが我々素人に分かるように書かれている。一部の医学系の啓蒙書に見られるような、素人相手にほらを吹いているのが透けて見えて,読んでいて白けるような記述はない。一部の人文社会系の研究書に見られるような、患者にとっての文化・社会の重要性が一方的に強調されていて苛立つこともない。一人一人患者の医学的な障害の説明と、その障害を一人ひとりの患者がどのように生きているか、ということが生き生きと描かれている。

 何よりも素晴らしいのは、彼らが構築して成立させてその中に住んでいる世界の扱いである。神経障害を持つものは、その障害にあわせて世界や自我像を構築し、あるいはそれらの概念なしで済ませ、なんとかやりくりしている。その世界は、我々には理解や追体験はできない。しかし、分からないなりに、それらの世界で障害者が「何とかやっている」こと、場合によってその世界への適応が創造的な何かを生む契機になっていることが自然に伝わってくる描き方がされている。安易に同情を強い、多様性の共存を唱えるのではなく、神経障害者が作り上げた世界が、異なったものながら何故か親しみを感じさせ、そこに存在することが貴重な何かに思えてくるように書かれているところが好きだ。

 その意味で、サックスの作品は、世界観の多様性を重んじる多文化主義に共鳴していると同時に、精神病・神経病を取り巻く「慎重なオプティミズム」という一つの魅力的な態度を説いている。精神病は治る!分裂病のメカニズムが分かった!脳神経学は人間の心を解明する!という(正しいかもしれないが)深みがないオプティミズムではない。色々なことが分からないし、多くの病気を治せない。しかし、少なくとも当座の間は、それらの病気をこの世界の一部として受け入れる理由がないわけではない、というような気になってくる。