精神病患者の声

 「精神病患者の声」を再構成した著作を批判的に検討した論文を読む。文献は、Beveridge, Allan and Fiona Watson, “The Psychiatrist, the Historian and The Christian Watt Papers”, History of Psychiatry, 17(2006), 205-222.

 著者の一人、アラン・ベヴァレッジはスコットランドの精神病院で臨床に携わりながら、スコットランドの精神病院の記録を丹念に調べた仕事に基づいた研究をこの15年ほど続けている。色々な芸がある(笑)研究者だが、入院患者の中から興味深いものを選び、彼らの人生や精神病の経験を再構成する仕事を沢山している。歴史の研究者から見て独創的な方法論があるわけではないが、彼の論文で色々な患者の姿を読むのはいつでも楽しみである。そのベヴァレッジが、ちょっと珍しいことだが、比較的有名な患者についての、既存の作られたイメージを批判する論争的な論文を書いた。

 その患者と言うのはクリスチャン・ワットという女性である。(恥ずかしながら、私も初めて知った患者である。) 1833年に生まれ、90歳まで生きて1923年に没している。1877年から1879年にかけて、アバディーンの精神病院に入退院を繰り返し、1879年から死ぬまで同病院に在院していた。この無名の精神病患者であった彼女が人々の注目を集めるようになったのは、彼女が書いた自伝などをDavid Fraserが採録して編集した書物、Christian Watt Papersが1983年に出版されたのがきっかけであった。貧しい家庭の出身で、女性であり、地主の権威に敢然と立ち向かい、そして精神病にかかって死ぬまで入院していたとうことで、フレイザー編集の書物は、社会の矛盾と闘って敗れた女殉教者というロマンティックなイメージを彼女に与えた。(このあたり、エリザベト・ルディネスコが描いたフランス革命の女闘士テロワーニュ・ド・メリクールを髣髴とさせる。)

 ベヴァレッジの議論のポイントは、ワットの自伝(これも本当の自伝かどうかは dispute されているという)だけに頼ったフレイザー以降の解釈の危うさを指摘することである。ワットの記述と、精神病院の医者たちが残した記録を較べて、両者が一致する部分としない部分が指摘されていく。たとえばワットは自分の症状を過小評価していること、ワットが精神病院でしたと書いている仕事(魚を売ること)は、精神病院にその記録がないこと、あるいはワットがきわめて好意的に描いているアバディーンの精神病院について、別の患者は激しく批判していること、などなど。

 精神病というのは、現代の我々がさまざまな神話を投影する装置になっていることは確かである。その中には、恐怖や他者化もあるし、逆にロマン化もある。いや、現代の我々だけでなく、昔から精神病は神話への強力な磁場がかかっている主題であった。患者自身もそういう磁場の中で病気を経験していた。そういう状況の中で、何が神話で何が事実なのかという議論がそもそもできるのか、あるいはできたとしてもどれほどの意味があるのか疑う人々もいるだろう。そういう議論を踏まえたとしても、ベヴァレッジのような仕事は必要であると私は信じている。そう信じる根拠は何かと問い詰められると、俄かには答えられないけれども。