パリの売春婦と SAYURI


 必要があってパラン=デュシャトレのパリの売春調査の抄訳に目を通す。アラン=コルバンが編集・解説をつけて15年前ほど前に出した重宝なものである。Parent-Duchatelet, Alexandre A.パラン=デュシャトレ『19世紀パリの売春』A.コルバン編・小杉隆芳訳(東京:法政大学出版局、1992)

 調べたかった箇所は、売春婦たちの同性愛(レズビアン)の話であるが、それ以外のところもつい読んでしまった(笑)。デュシャテレが書くところによれば、1817年に娼婦たちに伝染病予防のための措置を行おうとしたときに、彼女たちの顧客が役所にねじ込んできたという。書き方から推察すると、この一節はおそらく、有力者に囲われていたり有力者を客として取っている女性の身体は、衛生行政や医学権力が自由に検査することができなかったということだろう。日本の検梅でもこういう例はないのかしらん。

 ちょっと無駄話を。日本の性病の話も調べたいとは思っているのだが、「娼妓健康調査」の数字を眺める以上に進んだことは一度もない。「衛生局年報」などに載っている、娼妓の性病罹患数などを府県ごとに記した、ごく単純な表である。その表が、日本の戦前の売春について私が知っているほぼ唯一のことであった。売春というのは表に現れた性病罹患率の数字であるとしか思っていなかったところ、SAYURIという日本の芸者を主人公にして大ヒットした豪華絢爛な映画を飛行機の中で見たときの衝撃はすさまじかった。特に感動したのが、衛生局年報には「娼妓」と一言で書いてあるカテゴリーの背後にある、天と地ほど隔たった(と彼女たちは思っている)多様な階層だった。よく理解はしていないが、半玉とか芸者とか太夫とかである。自分の無知を恥じると同時に、全てのカテゴリーの「娼妓」は、半玉だろうが太夫だろうが、検梅の医学的まなざしの前には平等であること、性病にかかっているかいないかという基準でだけで見られて一つの数字になっていくという「抽象化による民主化」のロジックをひしひしと感じた。