妄想の長期変動


 精神病の歴史疫学の論文を読む。文献はRobinson, A.D.T., “A Century of Delusions in South West Scotland”, British Journal of Psychiatry, 153(1988), 163-67.

 精神病の歴史疫学 - どの時代にどんな精神病がどれだけ存在したかを調べる学問である。梅毒性の精神病とか薬物乱用は、梅毒の罹患率や薬物乱用者の数など、別の堅固な指標を考えることができるから何とかなる。おおまかなところはわざわざ面倒なリサーチをしなくても分かる。梅毒が治療できるようになれば梅毒性の精神病は減少する。当たり前のことである。それを論文にするどこかの暇な学者の顔が見たい(笑)。

 しかし、うつ病、マニア、統合失調症、ヒステリー、果ては「切れる」子供・・・疾病分類の体系そのものが変わっているときに、原因すら確かには分かっていないこういう病気の増減をどうやって歴史的に測ればいいのか? 信じられないことだが、精神病院の入院数の増加や診断件数の増加から、精神病の増加そのものを結論する愚かな論者がいる。そういう救いがたい愚物は別にして、いま期待がかけられている一つの方法は、遡及的診断である。100年前の診断をそのまま受け入れるのではなく、当時のカルテを読んで、現代の診断基準でもう一度診断してやるのである。これに必要なのは、高い水準でシステマティックに記入された100年前のたくさんのカルテである。イギリスやアメリカなどにはそれを可能にするカルテがわりと沢山ある。

 私自身はこれまで敬して遠ざけていた手法だし、少なくとも自分独りでは絶対にやらないだろう。しかし、この方法を使える人-精神科の診断の天才で、精神病の疫学を知っていて、そして100年前のカルテを読む暇がある人-が、質が高いカルテを使って本格的にやれば、promising な方法であることは間違いない。(自分で患者を見ないで、異なった精神病の概念に基づいた100年前のカルテの記述から診断するのって、オスラー博士並みの診断の天才でないとできないと思うけど、実際のところどうなんですか?)イギリスではこの方向の研究がわりと盛んである。その成果の一つがこの論文である。スコットランドの二つの精神病院のカルテから、1880-89年と、1970-79年の二つのタイムフレームを切り取って、その中から「うつ」「マニア」「統合失調症」の三つのカテゴリーを取り出す。100年前のカルテを読んで、この三つのカテゴリーに分類しなおすわけである。そしてこのカテゴリーの患者たちについて妄想の記述があるかどうか調べ、妄想がある場合にはその内容も分類する(罪の意識とか強迫とか性とか、そういう分類らしい)。

 その結果、クリアに分かったことは、「うつ」のカテゴリーにおいて妄想を持つ患者の割合がこの100年で劇的に減っていることである。「マニア」においても減少が見られる。「統合失調症」においてはその割合は変わらない。妄想内容の分類についてはあまり変わらないという。

 精神科の病気が歴史的に増えたとか減ったとかいうことを、それなりの説得力を持っていうためには、これだけのリサーチをしなければならない。いま話題になっている精神の病気や障害を取り上げ、何々病が近代になって増えた、その原因はこれこれであると軽々しく言う人々に、私が軽い苛立ちを感じているのは、このようなリサーチをしている医者たちを知っているからである。私自身が個人的に尊敬している医者たちが、忙しい時間の合間を縫って100年前のカルテの埃を払いながら再診断していることを知っているときに、怠慢の上にあぐらをかいた放言というのは、申し訳ないけど耳を傾ける気になれない。日本の精神病院のカルテを使っても、この研究はできないわけではない。100年前と較べることが可能な精神病院は日本に一つしかないが、日本の社会の変化のテンポを考えると、50年前でもいい。50年前なら、たくさんの精神病院のカルテが使えるだろう。

 画像はこの論文の表から作成した。