黒死病の歴史・完全版

 ヨーロッパ全体の黒死病の歴史について、自ら「完全版」と名乗る書物の一部を読む。文献はBenedictow, Ole J., The Black Death 1346-1353: The Complete History (Woodbridge: Boydell Press, 2004).

 一撃でヨーロッパの人口の1/3を斃したと言われる14世紀の黒死病は、最も研究が進んでいるエピデミックの一つである。その黒死病について自ら The Complete History なる副題を持つ研究書が少し前に現れた。少し意地悪く訳すと『完全版 黒死病の歴史』になる。『完全版 ヨガのポーズ集』『完全版 やせる食べ方ダイエットマニュアル』『完全版! プロがこっそり教える一日5万円儲かる医学史』(笑)のように、一般向けの書物の表題では「完全版」とか「決定版」という言葉は大安売りされているが、学術書の世界では「完全版」「決定版」というのは、文字通りの意味になる。この問題については、これ以上議論をする必要がありません、という宣言である。著者が自分でつけるのは極めて「まれ」である。一生を捧げてリサーチした成果だという高揚感があることは分かる。既存の全ての研究を超えたという自信があることも分かる。そういう時こそ謙虚になって、自分の仕事の価値判断を人に任せるというのが、学問の世界のエトスだと思うんだけど。

 と、まず最初にネガティヴなことを書いたが、しかしその一方でこの本をComplete History と名づけたくなる気持ちも分からないわけではない。その伝播と被害について、気が遠くなるようなリサーチに基づいてヨーロッパの全てをカヴァーしている。このノルウェーのおじさんにかかると、ル・ロワ・ラデュリなどは赤子の手をひねるようなものだ。私が知りたかった黒死病の伝播のスピードで、海上だと一日40km、幹線道路だと一日1.8km から2km、枝道に入ると一日0.4km から1.2km くらいだったという。この手の水準が高い情報が満載。