ヘルシーな人生は惨めな人生

 あけましておめでとうございます。今年もよろしく。

 初期近代のジェントルマンの養生論を論じた論文を読む。文献は、Shapin, Steven, “How to Eat Like a Gentleman: Dietetics and Ethics in Early Modern England”, in Charles Rosenberg ed., Right Living: An Anglo-American Tradition of Self-Help Medicine and Hygiene (Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 2003), 21-58.

 著者のS. シェイピンは、この30年間ほどの科学史研究を方法論的に牽引してきた豪腕の歴史家。日本語でも『科学革命とは何だったのか』の翻訳がある。この10年くらい、彼は科学者の肉体 (embodiment)という問題に取り組んでいるらしくて、その主題の論文を時々読む機会がある。その仕事の全体像を私は知らないが、読んだ範囲ではどれもとても面白い。この文献も、さすが一時代を成した研究者らしい実力 だという印象を一読して持った。

 シェイピンによれば、養生論と作法書は、初期近代のイギリスのジェントルマン向けに書かれた書物の中で、人気があった二つのジャンルである。前者は食べ物や飲み物を中心に、健康な生活のさまざまな技法を扱い、後者はジェントルマン(この用語はかなり広い意味で使われている)の立ち居振る舞いや教養を指南している。そしてこの二つのジャンルの言説には深い関係がある。自己の欲望を管理できない人間は、他人の上に立つことはできないという論理で、食欲でも性欲でも欲望にふけることは、ジェントルマンにあるまじき行為とされる。節制こそがジェントルマンの証しである。ここまでは常識的な話である。シェイピンの独創的な議論は、節制といい中庸というが、それなら「禁欲」はどうなのかという点に着目するところから始る。

 確かに自己の欲望にふけることはジェントルマンにふさわしくない。それと同時にシェイピンの読み解きによると「禁欲」もジェントルマンにふさわしくない。禁欲がふさわしくない理由は整理すると二つある。一つが、禁欲は、ジェントルマンの一つの条件である「活動的な人生」をさまたげるということである。禁欲は修道士や隠者にふさわしく、市民的な機能を現実社会で果たすべきジェントルマンや貴族や君主には似つかわしくない。(晩餐会でダイエット中を理由にして何も食べない外交官は著しく国益を損なうだろう。)もう一つは、医者に言われるがままに禁欲・節制することは、ジェントルマンが医学の奴隷になっていることを意味する。ジェントルマンは人の意見でなく、自分の意見で人生を律さなければならない存在なのだから。

 このように「禁欲」を警戒した思想家の代表として、フランシス・ベーコンが挙げられている。ベーコンは、食べ過ぎない危険のほうが食べ過ぎる危険よりも大きいと考え、多少は食べ過ぎ・飲み過ぎるくらいが理想の節制であるとした。そうすればジェントルマンの社会的な役割と、健康を両立させることができるからである。そういう思想的・社会的な背景を持つ、ベーコンたちが愛した言葉が、冒頭に掲げた「ヘルシーな人生は惨めな人生」(Living physically is living miserably) である。