種痘の英独比較史

 19世紀の種痘をめぐる政策のイギリスとドイツの比較史を読む。文献はHennock, E.P., “Vaccination Policy against Smallpox, 1835-1914: A comparison of England with Prussia and Imperial Germany”, Social History of Medicine, 11(1998), 49-71.

 健康や医療の政策は意外に国によって差が大きく、多国間の健康政策の比較史は豊かな成果を上げている。その中でも、なぜかドイツとイギリスの医療政策の比較史というのが定番で、他の組み合わせより多いような気がする。その中でもこの論文は明快で読みやすい。

 イギリス(厳密にはイングランドとウェールズ)とドイツ(最初はプロシア、1871年以降はドイツ帝国)の種痘をめぐる政策は大きく変わっていた。プロシアには医療管理行政(Medical police) の伝統があり、種痘は国家の責任であると思われていた。そのため、その責任を果たすための行政機構も整備されていた。一方でイギリスは種痘発祥の地なのに、国家が種痘に関与したのは遅く、またその程度も低かった。1875年から89年のあいだ、両国はともに全国民に強制種痘を課すという政策を行っていた。イギリスは生後すぐに一回、ドイツでは生後すぐの種痘+小児期の再種痘という違いはあったが、両者の政策はこの時期には非常に似ていた。しかし1889年から1914年の時期は、両者の政策は大きく違ったものになる。イギリスにおいては、強制種痘は個人の身体に関する自己決定権を犯すものとして広範な反対の対象となり、法が改正されて種痘は任意に逆戻りする。一方ドイツでも似たような反対はあったが、その範囲ははるかに狭く、強制種痘の制度はそのまま保たれる。その結果、当然のようにイギリスの種痘率は下がり、イギリスは全員種痘とは別の方法で天然痘に対応する。それが天然痘のモニターと発生したら封じ込めるという方法である。この方法の初期にはイギリスとドイツの天然痘の死亡率は大きく異なり、後者においてはしばしば大きな被害が出たが、イギリスの方法もすぐに天然痘のコントロールに成功するようになった。ドイツとイギリスは、20世紀には大きく違った方法を取って天然痘をコントロールすることに成功したのである。

 特に面白かったポイントを幾つか。まずイギリスのチャドウィックらの衛生改革運動は、もともと都市の環境工学として始ったが、種痘というのは都市と田舎にかかわらず全ての人間の身体に直接介入する方法であったということ。このあたり、身体論系の大胆な発想が、緻密な社会史・政策史と融合して、何故かオーストラリアの歴史家たちが面白い議論をしている。ちなみに日本の強制種痘の成立は1876年(明治9年)で、イギリス・ドイツとほぼ同時期である。かつての近代日本の医学史では、保守も革新も日本の公衆衛生・医療行政の後進性を指摘・糾弾するのが仕事だったけど、日本の公衆衛生は欧米と歩調を揃えていることは、もっと知られていい。