ダ・ヴィンチの解剖学


 しばらく前の授業で、サチコ・クスカワさんが書いたルネサンスの解剖学についての優れた文献を読んだ。その時に、これと似たようなことをどこかで読んだことがある、と引っかかっていたことがあって、記憶をたぐってレオナルド・ダ・ヴィンチの解剖学ノートを読み返してみたら、どんぴしゃのことが書いてあった。文献は、クスカワさんのものは、Peter Elmer ed., The Healing Art (Manchester: Manchester University Press, 2004)の第三章、レオナルドは杉浦明平訳『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』上下(東京:岩波文庫、1954)。レオナルドの解剖ノートを良い版で読まないと。

 クスカワさんは、書物を中心にしたルネサンスの「メディア革命」と呼べる現象の中に、ヴェサリウスの解剖学を位置づけている。人文主義の潮流の中での、古代の写本の収集、ライブラリーの形成、ギリシア語、アラビア語、ヘブライ語という新しい言語媒体の再発見。そして、筆写に頼っていた時代には想像もできない、寸分たがわない全く同じコピーを作ることができる印刷術。これら全てが形成するメディア革命は、解剖学を初めとする医学や科学研究の根本的な構造を規定した。それを象徴するエピソードが、ヴェサリウスパドヴァの教室で、自分が出版した本を解剖された死体とならべて、「ほら、同じだろう?」と学生に説明した場面である。ここでヴェサリウスがしているゲームは、書物から離れて実際の死体をこの目で見るという経験主義ではなくて、書物や言語が作り出すルネサンスの新しい装置の中に、現実の経験を組み込むという作業だった。

 同じようなことをレオナルドも解剖ノートの中に書いている。レオナルドは、音声(講義)が解剖された人体を語るのにふさわしくない媒体であると主張する。解剖学とは視覚的な学問なのだからというのがその理由である。「わざわざ、目に属する事柄を、耳を通過させようなどと思い煩うな」とレオナルドはいう。解剖学を理解するべき「目」が注がれるのはしかし、現実の人体というよりも、図譜であるべきであるとレオナルドは主張する。実際に死体を解剖してみても、そこに血管を正しく見て取ることは難しい。血管はもろくこわれやすく、周りは肉や組織で囲まれ、血液はすべてのものを染めてしまう。レオナルド自身は10体以上の死体を解剖して、その観察をもとに人体の構造を再構成して、図譜に表現した。この図譜は解剖された死体をそのまま写し取ったものからは程遠い。複数の現実経験をつなぎ合わせて構成された、仮想的な人体が描かれた図譜である。それをつなぎあわせ、二次元の図譜に表現するためには、遠近法や幾何学や力学などの学問も用いられている。それだけでなく、死体の悪臭がもたらす吐き気を克服し、解剖の途中の死体と同じ部屋で過ごす夜の恐怖に耐える精神の強さにも裏打ちされている。経験を再構成し、知性と精神力によって作り上げられた図譜こそが、講義を耳で聞く聴覚的体験と、単純に人体を見る視覚的体験にかわって、解剖学が表現され学ばれる特権的なメディアになるべきだというのが、レオナルドの主張である。