中世医学のベッドサイド



未読山の中から中世医学のベッドサイドの倫理学の研究論文を読む。文献はMcVaugh, Michael R., “Bedside Manners in the Middle Ages”, Bulletin of the History of Medicine, 71(1997), 201-203.

医者のスキルを保証する資格制度にあたるものがなかった時代には、患者はある医者に自分の身体を任せる前に医者の実力のほどを見極めなければならなかったし、医者は自分の腕を示して患者の信頼をそのつど勝ち取らなければならなかった。このあたりの事情を象徴している逸話があって、11世紀に名医の誉れ高かったセント・ガルの修道士にバヴァリア公爵が病気を診てもらおうとしたときのエピソードである。まず修道士の診断の腕を試そうとした公爵は、自身の尿ではなくて女召使の尿を送って、修道士が尿の本当の由来を見抜けるかどうかを密かに試験しようとした。この修道士は、尿を検査すると感極まって膝まずき「何たる奇跡!公爵閣下におかれては男の子をお産みになりますぞ!」と叫んだ。件の女召使が本当に男子を出産したと知った公爵は、修道士を全面的に信頼して、彼にかかることを決めたという。多分に作り話のにおいがするが、中世の実験室医学というべき尿診は、医者の威信がかかった場であったことが、この話に象徴されている。

12世紀ルネッサンスはヒポクラテスとガレノスという古典医学の巨人のテキストをヨーロッパにもたらした。二人とも尿診ではなく患者の臨床観察を重んじた医者である。この両者のテキストを取り入れ、また学問の権威に裏打ちされた医療という新たなモデルを形成していた医者たちは、尿診から臨床へと勝負の場を変えていった。臨床の場で、患者が医者に告げていないこと、あるいは患者自身が気がついていないことをずばりと言い当てることが、患者の信頼を勝ち得る最良の方法であった。患者自身の身体と病気について、患者に対する優越を見せつけることは生易しいことではない。しかしこれに成功したときの患者の驚きと信頼もまた大きい。それが患者の信頼と協力をとりつて、後の治療をスムーズにする基盤になったのである。

「中世の医学は茶番ではない」と切々と訴えるこの論文の筆者には申し訳ないけれども、女の尿を送ってみたとかいう話を読むと、どうしても私は夜の街に現れる手相見のことを思い出してしまう。何か別の人物になりすまして手相見をからかってみようと思ったことがあるのは、私だけではないだろう。(悪ふざけがすぎるような気がして、一度もやってみたことはないけれども。)医者にかかる前に、この医者の腕は確かなのかをいちいち確かめなければならない社会で生きるというのは、どんな経験なのだろう? 似た経験をしたことがある方、万が一いましたら教えていただけますか? 

画像は、どちらも近代のものだけれども、尿診断の一つのテーマで、ちょっと「ややこしい」(低人さんの「新明解大阪語辞典」より)ことになっている医者と患者。