バルセロナのペスト

 バルセロナの皮なめし職人が記したペスト流行(1651年)の記録を読む。文献はA Journal of the Plague Year: the Diary of the Barcelona Tanner Miquel Parets 1651, translated and edited by James S. Amelandg (Oxford: Oxford University Press, 1991).

 1651年1月にバルセロナにペストが侵入し、同年8月までに市の人口4万5千人の1/3程度と言われる犠牲者が出た。同市の皮なめし職人の親方ミケル・パレットは、この流行で妻を失い、四人の子供のうち三人を失った。生き延びたパレットは後に詳細な二巻本の自伝を残したが、その中にはペストの流行についてのかなりの量の記述が含まれている。この記述がとりわけ貴重なのは、これが市当局やエリートの視点から書かれた記録ではなく、広義の民衆の目から見たペスト記録であるからである。パレットの自伝からペスト流行にかかわる部分を抜粋し、カタロニア語から英訳して、非常に優れた学術的な解説をつけて出版したのが本書である。

 ペストに襲われたバルセロナの惨状はすさまじい。住民は市外へ大量脱出し、居住者がいなくなった家は強盗に略奪される。聖職者も逃げ出したので、最後の告解を聞いてもらえずに死んでいく人々が多い。重病人の身辺の世話をするものを雇うこともできない。ペストを発病した人々は高熱と恐怖のあまり気がふれて裸で通りを走り回り、担架に縛り付けられて隔離病院に連れて行かれるあいだずっと、金切り声を上げ続ける。

 こういう光景よりもパレットが力を入れて書いているのは、共同体の結びつきの崩壊とエゴイズムの横行である。人々は目の前で患者が死んでいこうとするのに足を止めようともしない。住民の身体と魂の世話をするべき専門職である医者や聖職者が、病気におののいて早々に街を逃げ出している。市当局は即座に隔離病院を建てたが、そこに連れて行かれた女たちで容姿が優れているものは、権力を悪用した看護人たちに身体を要求される。その要求を拒むと満足な食事を与えられず、男たちの言いなりになったふしだらな女たちには良い食事が供される。悪徳が悪徳を生む状況を、「隔離病院は売春宿になった」とパレットは怒りを込めて書いている。