梅毒の歴史






トレポネーマ属の細菌が引き起こす病気の歴史を読む。文献はHackett, C.J., “On the Origin of the Human Treponematoses”, Bulletin of the World Health Organization, 29(1963), 7-41.

http://blogs.yahoo.co.jp/dnaisuke で、 Dnaisuke さんが「大学院生の華麗なる日常」と題したブログを運営している。ギャグあり、ドラマあり、生命倫理ありの内容を、ノリがよい漫画風にセンス良くまとめていて人気沸騰中だから、ファンも多いと思う。私も何回かヒントを頂いたことがある。

 そのDnaisuke さんが先日「自分は人骨化石の分析もしている」と書いていらして、思わず興奮してしまった。好き嫌いにかかわらず「考古学的証拠に基づいた病気の歴史」というのは医学史の一つのフロンティアである。アラスカの永久凍土に埋葬された人体から1918年のインフルエンザ・ウィルスが再生されたニュースは記憶に新しい。中世ヨーロッパのらい収容院のハンセン病の人骨の研究はよく引用されているし、「本当にペストだったのか?」という議論が戦わされている黒死病についても、先端医学の方法を用いた研究がされているという。

しかしこの種の問題で一番馴染み深くて頭痛の種なのは、有名な梅毒の起源問題である。「病気の歴史」を教えたことがある人ならよく分かると思うけど、梅毒の起源を公平かつ簡潔に20ページくらいでまとめた論文が一本あれば、私たちの授業はだいぶ楽になる。不幸なことに、『ケンブリッジ世界疾病史辞典』の「梅毒」の項目は、そういった梅毒の実体の歴史を書くことは不可能であり無意味であると信じている、戦闘的で原理主義的な不可知論者が書いているので、この点ではあまり助けにならない。

今日取り上げた論文は梅毒の仲間の病気についての古典の一つだが、実体そのものの歴史というより、それぞれの病気が栄える必要条件を素描したものであって、地球の気候の変化と人間の生活環境の変化によって、トレポノーマ属の四つの病気(ピンタ、フランベシア、常在梅毒、性病梅毒)が変化してきたという巨大な仮説である。

1. 紀元前1万5千年。まずこの四つの病気の中で最も古い(と思われる)ピンタが現れる。この病気が新大陸にあるということは、寒冷な気候により地球の海面水位が下がり、ベーリング海峡を歩いたりして渡ることができた時代にこの病気が発生したことを意味する。

2. 紀元前1万年。次にピンタからフランベシアが進化する。この進化が起きたのはアジア=アフリカ地域で、この段階ではベーリング海峡は既に水没しているので、フランベシアはアメリカ大陸には渡れなかった。

3. 紀元前7000年。氷河が後退して乾燥した地域で、フランベシアに代わって、乾燥に耐えられる常在性梅毒が現れる。

4. 紀元前3000年。アジアの大都市で性病梅毒が発生し、紀元前100年ごろにヨーロッパに広がる。この段階ではマイルドな疾患だったが、15世紀の末に激烈な型に変異し、これが世界に広まり、現在の梅毒のもとになる。

1~3までの話はいい。私が何も知らないことだから、諸手を挙げて受け入れる(笑)。問題は4である。私には、正直言って、どうして新大陸由来説をとらずにこの説明を取ったのか、その理由がわからない。一番不満なのは「なぜ」「ヨーロッパで」激烈な形に変異したのかが説明されていないところである。どうしてこの変異がアメリカで起きて、それがコロンブスたちによって持ち帰られてはいけないの?新大陸の化石人骨には、梅毒の痕跡を示しているものもあると聞いていたけど、それはどうなったの? 

と、色々と不満はあるが、しかし、ヨーロッパ、アラビア、インド、中国にわたる、それぞれの体系の理論が刻印された古い医学書の記述から的確な臨床像を取り出す一方で、トレポネーマ属の細菌の色々な特徴を頭に叩き込んでそれぞれの地域の環境との相性を考えて、しかも通商などの要因も考えるというのは、下手をすると一生の仕事である。「梅毒の世界史-紀元前一万五千年から紀元2000年まで」という信頼できる本を、私が生きている間に読むことができるだろうか?