『天路歴程』


 必要があって『天路歴程』に目を通す。文献はバニヤン『天路歴程』正編・続編、池谷敏雄訳(東京:新教出版社、1985)

 老いの話で「人生という旅」というテーマについてマテリアルを探して読んでみた。日本語に訳すと笑ってしまって読めない側面があるテキストである。小説というよりむしろ寓話だから、登場人物はちゃんとした名前を持っておらず、寓意がそのまま名前になっている。「基督女」(Christiana)とか「慈悲子」(Mercy)とか「泡ぶく夫人」(Mrs. Bubble) 「正直翁」(Old Honest)とか、その類の名前ばかりである。暫く読み進めて慣れたつもりになっていても、不意打ちのように「間抜け町」とかいう地名が出てくると、やっぱり笑ってしまう。翻訳が難しいことはわかるが、それにしてもどうにかならないのだろうか。

 確かにこのテキストでは時間は経過する。特に続編のほうでは子供は成長して結婚するし、慈悲子さんは妊娠して子供を産むなど、家族のアルバムをめくっていくような感じがするところもある。しかし主人公たちは「老い」を経験しない。目がかすむとか、力が出なくなるとか、ふさぎがちになるとか、下腹に脂肪がつくとか(笑)、そういうことがないまま、お迎えが来て「死の川」を渡っていく。思い切り大胆なことを言うと、「人生という航路」を描いた最大の古典であるこの作品にも老いは描かれていないような気がする。もう一つ、さらに大胆なことを言うと、主人公たちは時間というよりむしろ空間的な次元で移動していく。Thomas Cole の書物から得た印象と大分違う。

 バニヤンということでちょっと無駄話を。精神病を経験した17世紀の人物が、それを振り返って書いた自伝を、学生時代に分析したことがある。ジョージ・トロスGeorge Tross という人物の自伝である。私のまとまらない話を辛抱強く聞いて下さっていた、ディケンズがご専門のある先生が、「で、君はなぜバニヤンの名前を出さないの?」と不思議そうに質問された。後から調べたら、トロスのテキストが描く事件のシークエンスは、バニヤンの自伝のそれと全く同じであった。若い頃の放埓な生活-救いへの絶望-幻聴と幻覚と狂気-回心という事件の契機の中で、トロスは精神病院に入り、バニヤンはそこまでには至らなかっただけの違いだった。 “Ignorance, pure ignorance” というのは、こういう時に言うのだろうな。

画像は、18世紀のエディションにつけられた地図。宝島、ナルニア国、指輪物語といった少年の心を熱くさせた冒険の地図がここにもあるとは。その人生航路の冒険で「慈悲子」さんに会うのかと想像して、ニューイングランドの少年たちは胸を躍らせたのかしら・・・?私は、普通の名前を持っている人のほうがいいけど(笑)