フォスター「老いについて」

 必要があってフォスターの短いエッセイ「老いについて」を読む。文献はE.M., フォスター「老年について」『老年について』(東京:みすず書房、2002), 1-8.

 『眺めの良い部屋』などで有名なフォスターに De Senectute (「老いについて」)というタイトルの短いエッセイがある。英語で読みたいと思ったけど、簡単に手に入る版を見つけられなくて、みすず書房の翻訳で読んだ。議論としてはとらえどころがないけれども、いくつかのいい言葉があったので、私が取ったメモをそのまま載せる。

「私は自分の死におびえる権利も、知らない相手の場合でも、その死を悲しむ権利を放棄するつもりはない。」

「人の死を悲しむのを気取って拒否したり、墓地からさっさと仕事に帰ってしまったのではなさけない。 それも、まず墓地に行かなければだめだが。19世紀が死を大げさに扱いすぎたとすれば、今世紀は逆にそっけなさすぎるのではないだろうか。どちらの姿勢も人間としての基準をあやうくするものだ。」

「老年という状態については知的な検討があまりになされずにきている。 じっさい老年に達したものも、これを観察するものも表現をもてあそぶだけで、しかもその響きは決まりきっている。(中略) 老人にたいする賛辞や皮肉は、機械仕掛けの鐘も同然なのだ。老年は要するに絶え間ない一つの騒音ということになってしまう。実はもっと多様なのだが。じつは知恵は増えて勢力は衰えるという、魅力的な組み合わせなのだが。」 

「この英知という高貴な達成は体力の衰えと結びついているからである。体力が衰えれば体格は目に見えて貧弱になり、すると今度は魂の輝きが増すのではないかという説は、残念ながら退けるほかはない。もっとも、その衰えがガン性のものでなければ、他の問題に精神を集中させる役に立つこともありうる。たとえば性的不能におちいった場合などがそうだ―悪いことだけではない。それが一つの悩みにならないかぎり、気が散るのを妨げるどころか、イエイツのばあいのように想像力を刺激することさえありうる。肉体的衰弱は、なんら精神的弊害をもたらさないばあいもあるらしいのだ。」