ロシアのコレラと医療専門職


ロシアのコレラと医者についての論文を読む。文献は、Frieden, Nancy M., “The Russian Cholera Epidemic, 1892-93, and Medical Professionalization”, Journal of Social Hisotry, 10(1977), 538-559.

18・19世紀のロシアの近代医療は、国家によって「上から」作られたものであった。これは日本の近代医学についてよく言われる言葉だが、両国の医療はものすごく違う。ロシアにおいては、当時訓練された医者の多くは貧しい階級から奨学金を貰って医学校に通い、その代償にシベリアの刑務所や辺境の医官で長いお勤めをしていた。医者は、専門職として自立しているというより、国家に大きく依存していた。当然のように、国家や行政の組織の中で医者は従属的な位置におかれ、意思決定に関与できない立場におかれていた。社会の中でも医者の地位は低く、1864年のペテルスブルクのセンサスでは医者は「職人」の中に混じって記されていた。クリミア戦争後の近代化政策で、各地に自治組織(ゼムストヴォ)が創られたが、土地所有者の階級に属することは滅多になかった医者は、健康行政においてすら発言権が小さかった。健康行政の助手のポストに、ゼムストヴォの代表の意向で資格を持たない人物が任命されて自分の部下を任命する権利すら踏みにじられたことに抗議して、医者たちが集団で辞任したこともあった。モスクワのようにゼムストヴォに医務局をおき、そこで医者が専門家として活躍できる組織があったところは少なかった。1889年になっても「医務局」を置いていたゼムストヴォは全体の三分の一にすぎなかった。

1892年にはじまるロシアのコレラの流行は、この状況を変えるきっかけとなった。医者たちは、これまでのコレラの流行のパターンを知り、西欧諸国におけるコレラ対策の成功を知っていたから、すでにコレラ流行の警鐘を鳴らし、ゼムストヴォの防疫活動において自分たちにより大きな権限を与えるように運動していた。医者の予言どおりにコレラが始まると、民衆は恐怖に捉われて住んでいた場所から逃げ出すものが大量に現れた。どちらが原因で結果か分からないが、警察・軍隊の強権によって流行病を押さえ込もうとする国家権力に対して、民衆は激しく反発した。コレラ病院は襲撃されて患者は救出され、検疫線を張った軍隊や警察との激しい争いが頻発した。政府や支配階級による毒殺陰謀説も流れ、1892年の6月、サハロフのカヴァリンスクという町では民衆は暴徒化して街を制圧し当地の伯爵を引きずり出して虐殺して死体を辱めた。これらは、医者たちにとっては、国家と結びつくと民衆を敵に回すことになるという教訓を教え、国家に反対するが自治体には与するというというスタンスをとらしめた。モスクワでは開明的なゼムストヴォを中心に防疫活動は成果をあげ、それを目撃した劇作家のチェホフはモスクワの医者たちに最大級の賛辞を送っているという。

医者たちはコレラ流行の現実にショックを受けると同時に、これを利用して自分たちの発言力を増大させる運動を展開した。自分たちに指導力を発揮させてくれれば、このような惨状は避けられたのに、というロジックである。このようなロジックは意外なことに実を結び、医者に十分な発言権を与えた広域の衛生委員会がすぐに作られた。そのせいかどうかは分からないが、1893年になってコレラは急速に衰退した。20万以上の死者が予想されていたのに対し、3万8千人ほどで済んだのである。この被害の小ささの原因は本当のところはよく分からないが、ロシアの医者たちにとっては、国家に従属するのではなく地方自治の組織の中で発言権を増すことの正しさを教えた流行となった。

日本のコレラのことを考えるときのヒントが満載である。

画像はキエフ医学史博物館の展示より。ゼムストヴォの医師、ウクライナ農民の病気の子供を診るの図。人民を救う理想に燃える君たちは、しかし、聴診器も持っていないのか・・・?