フランス革命のモーリシャスの天然痘の流行についての論文を読む。文献はVaughan, Megan, “Slavery, Smallpox and Revolution: 1792 in Ile de France (Mauritious)”, Social History of Medicine, 13(2000), 411-428.
インド洋の島のモーリシャスは長いことアラビア商人などに知られてはいたが、最初に入植が記録されているのは、1638年のオランダによるものである。オランダ人はすぐに島を放棄し、18世紀にはフランスの支配下に入り、イル・ド・フランスと呼ばれていた。労働力として東アフリカ、マダガスカル、インドなどから奴隷を多数輸入していたこの島は、たびたび「積荷」の奴隷によってもたらされる天然痘の流行に襲われた。18世紀にも1750年代と70年代に流行があった。ひとたび天然痘が島内で流行すると、島に住む白人だけでなく貴重な財産である奴隷も失われるので、船は全て医官の検査を受けることになっていた。しかし1792年の天然痘の流行は、この規則が守られなかった例を教えてくれる。インドのポンディシェリーを出発した船の航海中で既に流行は始まっていた。380人の積荷のうち60人が航海の途上で天然痘で死亡した。92年の6月に港に到着した船医はこの事態の報告義務を無視して、秘密裏にこの積荷を陸揚げし、島の大富豪にして有力者の家にこの積荷を運び込んだ。数日後、すさまじい天然痘の流行が始まった。
革命期に高まっていた政治意識の中で、天然痘への対策は複雑な状況におかれる。島の政府は患者を隔離し人痘によって流行を食い止める政策を打ち出していたが、王と中央政府に対する辺境の普通の市民の勝利として革命を歓迎していた入植者たちは、革命の成果として個人の財産権が保障されたことを重視していた。政府は、彼らの財産である奴隷に人痘を接種して病気にする権限を持っているのだろうか?これが人痘であったことが事態を複雑にした。人痘を接種された奴隷は立派な天然痘の患者なのだから、伝播を防ぐために隔離病院に送付されなければならない。これは財産の差し押さえであり、また病院の環境が劣悪だったことを考えると、財産への脅威である。一方で、自らの奴隷が他の人物の奴隷から天然痘をうつされるのを恐れた奴隷所有者たちは、隔離と人痘を声高に要求していた。
この論文の一番面白いポイントは、奴隷の天然痘とその対策を、家畜の病気や獣医学とパラレルに考える事例を提供していることである。