ハプスブルクの公衆衛生

必要があって、ヨハン・ペーター・フランクの『医学行政体系』の抜粋を読む。文献はFrank, Johann Peter, A System of Complete Medical Police, edited with introduction by Erna Lesky (Baltimore: The Johns Hopkins University Press, 1974)。オリジナルのドイツ語は全部で6300ページ近くあるそうで、これを全部読んだことがある医学史家は、ドイツの公衆衛生の専門家以外にはたぶんいない。本書は、オリジナルを500ページ弱にまとめたものだが、私はその縮約版ですら拾い読みでしか読んでいない。そのたびに面白い発見がある、深いテキストだけれども。

 医学史や公衆衛生で必ず登場する「カメラリズム」の公衆衛生医がヨハン・ペーター・フランクである。1745年にプファルツ伯領に生まれ、ハイデルベルクの医学部を卒業した後、1775年にシュパイエル公の侍医となるまで色々な職を転々とする。シュパイエル領内で行ったさまざまな医療行政の改革の成果を謳った『医療行政体系』の第一巻が1779年に、第二・第三巻がそれぞれ80年と83年に出版されると、フランクの名声は高まり、大学や諸侯からの招きが殺到する。その中で、啓蒙専制君主のヨーゼフ二世は、フランクを領地の Protophysicus 衛生局長に任命し、フランクはさまざまな衛生改革を構想する。これは典型的な「上からの」改革で、市民の健康確保の、市民生活を国家が介入・監視することを基本とする公衆衛生の考え方は、当時からすでに論議を呼んでいた。フーコーが「バイオパワー」という概念を作り上げたときには、フランクの書物が念頭にあったに違いない。18世紀に医学が及ぶ範囲というのは劇的な飛躍をする。これまで基本的に病気になった人間を治すことだけだったのが、感染症の予防、医療の規制、食品衛生、産婆の教育、結婚と出産の奨励・・・などなど、現在の厚生省がやっていることはたいていフランクの守備範囲にはいっている。現代的な「医学の領分」を作り上げて形にした記念碑的な書物である。