ロンドンの乳幼児死亡率

 必要があって、ロンドンの乳幼児死亡についての論文を読む。文献は、Fildes, Valerie, “Breat-Feeding in London, 1905-1919”, Journal of Biosocial Science, 24(1992), 53-70.

 20世紀初頭のロンドンで、婦人保健監察官が戸別訪問して集めてきたデータを集計して、22万5千人の乳児の死亡率を地区ごとに計算した論文。面白いデータがたくさん。生後一ヶ月で母乳保育をしているのは90%以上、3ヶ月だと80%、6ヶ月だと70%くらいである。これはヨーロッパのほかの国に較べて高いそうである。

 一番面白かったのは地区ごとのばらつきの話。当時のロンドンで、貧困家庭が多い地区で乳児死亡率が高い一つの理由として、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な説明がされていた。貧困家庭では稼ぎ手の収入が十分でないから、子供を生んだばかりの母親が家庭の外に仕事に出なければならず、母乳保育ができなくなり、人工乳に頼ることになり、人工乳は色々と良くないから、その結果乳児死亡率が上がるという説明である。母乳信仰の中で、母親が仕事をすることに保健関係者が否定的な態度をとる理由になっていた。しかし、この論文によると、貧困者が多い地区で乳児死亡率が高いのは確かだが、それらの地域では母乳保育率も高いという。例えば貧困者が多いバーモンディでは最初の一ヶ月は97.8%が母乳のみで育てられているが、富裕なウェストミンスターではこの値は75.9%にまで下がる。しかし、前者のIMRが134(パーミル)であったのに対し、後者は99であった。IMRが高い地域の方が母乳保育率が高いという、ちょっと意外な結果が出ている。これは、貧困地域では離乳のタイミングも早すぎるケースが多く、不衛生な補助食を食べさせることが多いからであるが、それよりも面白いのは、こういうデータではなく、女性(特に母親)の労働が諸悪の根源であるかのような(他の都市の)データが選ばれて、脚光を浴びたということである。 その背後に「母性主義」があったことは言うまでもない。女性が母の機能を果たすと、社会全体が幸せになるという考えである。