熱い社会と冷たい社会

 必要があって、クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳(東京:みすず書房、1976)を本棚から引っ張り出してきて読む。

 今日もちょっと研究の話をする。明治以降の日本において、漢方医は激減したのに、漢方薬はなぜしぶとく生き残ったのかという問題を考えている。特に売薬の領域で漢方系の薬は長く生き残った。朧月夜さんが詳しいダラニスケやpasturedogs さんがその由来を書かれていた中将湯などは、遅くとも江戸時代には創られていた売薬のブランドで、なぜこれらは明治以降も生き残ったのだろうか? 江戸時代の医療のテクニックの多くは死滅したのに・・・というようなことをあれこれ考えていて、レヴィ=ストロースの冷たい社会と熱い社会の対比が何かのヒントになるかもと思って読んでみた。『野生の思考』の「再び見出された時」と題された章にある有名な概念で、「自ら作り出した制度によって<時間の経過>という要因が社会の安定と連続性に及ぼす影響を自動的に消去しようとする」冷たい社会と、「<時間的な変化>を自己のうちに取り込んで、それを発展の原動力にする」熱い社会が対比されている。素晴らしく魅力的な概念で、この洞察を適用した論文はきっと無数に書かれているのだろう。

 リサーチのヒントには全然ならなかったけれども、ずっと昔に読んだときには気づかなかった面白いことが書いてあった。「我々はなぜ古文書を大切にするのか」という問題から、歴史と現代についての鋭く深い洞察が書かれている箇所である。

 偉大な文学者の自筆原稿は、ほぼ完全に校訂されて全集になっているし、写真版すらある。オリジナルの原稿の実用的な価値はほとんどない。それなのになぜ古文書は大切にされるのだろうか?という問いである。ちょっと長くなるけれども、レヴィ=ストロースの言葉を引用する。

<われわれが古文書を失ったとしても、われわれの過去がそれによって消滅してしまうわけではない。ただ、通時的あじわいとでも呼びたいものが失われるだけである。過去は依然として過去として存在する。しかしながらそれは、すべて現在もしくは近年のものである複製や本や制度の中だけに、また状況自体の中に、しまいこまれた過去である。したがってこれまで共時態の中に平らに並べられたものとなろう。
 古文書の効力はわれわれを純粋歴史性と接触させることである。(中略)出来事自体はとるに足らぬものであてもよいし、また完全に欠如していてもよい。数行の自筆原稿や文脈なしのサインだけの場合がそれにあたる。しかしながら、バッハの三小節を聞いただけで心をときめかさずにいられぬ人にとっては、彼の署名はどれほど大きな価値を持つものであることか!(中略)古文書は、歴史を物的存在たらしめる。まことに、古文書の中においてのみ、過ぎ去った過去とそれが今なお生き残っている現在との間の矛盾の克服が可能なのである。古文書は出来事性の化身である。>

 古い<オリジナル>なものに触れる時の興奮と感興を、これだけ知的かつ詩的に論じた論客を私は知らない。ま、これもきっと、いつもの無知の産物で、数年後には、「xxのこの優れた洞察を知らなかった。激しく不明を恥じる」とか書いているんだろうけれども(笑)。