16世紀ロンドンのエリート医師たち

必要があって、16世紀ロンドンの王立医師協会についての研究書を読む。Pelling, Margaret, Medical Conflicts in Early Modern London (Oxford: Clarendon Press, 2003). ペリングが二十年の準備期間を経て書いた書物で、数年に一冊あるかどうかの医学史研究の傑作。必読書になることは間違いない。

 1980年代に始まったペリングたちの16世紀のロンドンの医療の社会史を完結させた成果である。コア・マテリアルは、当時のロンドンの医療を規制する権限を持っていた王立医師協会が訴追した「非正規の」医療者の記録である。1560年からの1640年までの約90年間で約700件ある。こういうマテリアルを使い始めて、医学史に「革命」を起したのもペリングたちであった。

 「イントロダクション」をまず引き込まれるように読んだ。ロンドンのエリート医師たちのアイデンティティをめぐる議論で、ペリングならではの的確な分析、深い洞察、そして広い視野。内科医、外科医、薬種商とある「正規の」医療関係職の中で、外科医は器具を使って手仕事に携わり、薬種商は店を構えて商品を売って生計を立てていたが、内科医はこれらの「同業者」とは違うアイデンティティを形成しようとしていた。ここまでは誰でも知っていることである。ここからの分析が、ペリングの腕が冴えるところである。ロンドンの医師 (physician)たちは、同じ医療関係職の外科医や薬種商と違い、ギルドを通じて市の公職についたりすることは稀であった。彼らにとっては宮廷や貴族に仕える教養人というアイデンティティの方がはるかに重要であった。一方で、彼らの多くは、結婚して幸せで富裕な家庭の家長になるという、後の中産階級が選び取った経済的成功と私的領域を中心としたアイデンティティ形成の途も取らなかった。彼らの結婚は遅れがちで、終世独身で養子を貰うケースも多かった。色々な意味で彼らは聖職者に似ていたが、彼らが扱うのは精神や霊魂や来世とは対比的に捉えられる身体と現世であった。一言でいうと、彼らがアイデンティティを形成する社会的な力学は、複雑であり特殊であった。初期近代の社会の激動の中で、彼らは非常に「きわどい」形でアイデンティティを形成していたのである。医者のアイデンティティ形成を探るのに、公職と私生活の話を絡めるあたりは、言われて見ればコロンブスの卵だけれども、なるほどね・・・ 

 思わず、このブログを訪問してくださる何人かのお医者さんたちのアイデンティティに思いをはせた。器具と手仕事に重点を置いている方もいるし、公共空間での医者のあり方を一貫して引き受けている方もいる。優れた歴史の研究というものは、直接的には明示しなくても、ごく自然に現代へと思索を誘うものである。