肥田春充『川合式強健術』(東京:大正14年)図書館で借りたい本の隣に並んでいたので、思わず借りて読んでみる。これがとても面白かった。
肥田春充(1883-1956)は、大正・昭和戦前期には人気があった健康法の提唱者である。腹式呼吸の一種である「川合式強健術」を始めた。後に肥田家に養子に入ったことから、現在は「肥田式強健術」というらしい。 この強健術のウェブサイトは非常に充実している。 http://homepage1.nifty.com/hidashiki/
川合少年は病弱な両親から生まれた病弱な子供であった。やせ細っていたため「茅棒」とあざ笑われ、男であるか女であるかわからないと言われた弱虫であった。意気地も元気もなく、暗い部屋で独り閉じこもって陰鬱な小説や悲哀の詩などを耽読して涙していた。夜は独りで滝の上に立ち、毒薬を所持したりしていた。今の言葉でいう引きこもり、当時の言葉でいう変質者(今の変質者とかなりニュアンスは違う)の生活をしていた。
しかし彼が広い世界を眺め、社会的な行く末に思いを馳せたとき、彼に自覚と刺激と発奮が訪れる。彼は歴史上の侠客たちの活躍を羨ましく思い、体育 physical education を知り、体格を改造して「強くなりたい!」と思う。その思いに決定的な方向付けをしたのは、なんと新陳代謝の説であった。彼が手に取った生理学書には、細胞は新しいものに変わり、身体全体の細胞は7年間ですっかり新しくなると書いてあった。この記述は、身体を改造したい彼には「新生」の約束であった。
しかし彼が広い世界を眺め、社会的な行く末に思いを馳せたとき、彼に自覚と刺激と発奮が訪れる。彼は歴史上の侠客たちの活躍を羨ましく思い、体育 physical education を知り、体格を改造して「強くなりたい!」と思う。その思いに決定的な方向付けをしたのは、なんと新陳代謝の説であった。彼が手に取った生理学書には、細胞は新しいものに変わり、身体全体の細胞は7年間ですっかり新しくなると書いてあった。この記述は、身体を改造したい彼には「新生」の約束であった。
「この成長発育の力をよく導いたならば、どんな虚弱な体質であってもこれを一変できる・・・よし、やってみせる。きっとやる!」
彼は付近の寺(山梨の一乗寺という寺だそうである)に行き、その境内から中秋の名月を眺め、さわやかな富士颪に吹かれて、新しく「道」を見つけたと確信した人間だけがひたることができる幸福感に満たされる。この夜以降、彼の人生は強健術の開発と実践と伝道に捧げられることになる。