明治の東京の小運河

 必要があって、明治の東京にあった「水の風景」を書いた随筆を読む。文献は鏑木清方『明治の東京』山田肇編(東京:岩波文庫、1989)。同『こしかたの記』(東京:中央公論社、1961)

 鏑木清方が描く江戸情緒をたたえた日本画が、そのまま随筆になったような、失われた江戸・東京の回想である。彼は幼少期を、当時外国人の居留地もありハイカラなホテルも立っていた築地のあたりで過ごしたが、彼の記憶の中で故郷の風景の核になっているのは、「築地川」という「川」であった。

 「築地川というのは本も末もない掘割の一つで、佃の入り江にさしこむ潮は(中略)流れ流れて新橋演舞場の脇で二つに分れ、一筋は本願寺の横、今の魚河岸に沿うて、元の佃の入り江に出で、一筋は浜離宮から芝浦の海へ出る。海からはいってまた海へ出る。岩間の清水、里に入ってなにがしの川となる、そんな由緒も経歴もない。同じ水がどうどうめぐりをして、日中には川底の泥を曝すこともあるが、夕汐が満ちて来れば、岸の青柳かげを渡して美しく、橋の多いこのわたりは夏に近づく頃いつも私の瞼によみがえる」 (84)

 このささやかな川-というか、水路というか、運河というか-をめぐる、思い出が語られている。川の欄干に立って、川面に恋人の顔がみえるといった若い男の話や、いじめられた芸者が川に身を投げて死んだ話、「かわうそ」がきれいな女に化けて出ては人をだます話。水泳する子供や釣をする大人でにぎわう川辺には、「つけやきぱん」「焼き大福」や、氷屋、アイスクリーム屋など が軒を並べている。しかし、子供の水泳には水底にいる河童が暗い影を投げかけていた。人が水で死ぬのは河童に引き込まれるのだと伝えられていた。清方の祖母は夏になるときゅうりに孫の名前を墨で書いて流していたという。水でおぼれないためのおまじないだったそうだ。このエモーショナルな風景が、コレラ行政を行う公衆衛生の対象であったことを、頭に入れておこう。