植民地時代朝鮮のコレラ

植民地時代の朝鮮における日本政府によるコレラ対策の論文を読む。文献は、Yunjae, Park, “Anti-Cholera Measures by the Japanese colonial Government and the Reaction of Koreans in the Early 1920s”, The Review of Korean Studies, 8(2005), 169-186.

1910年の朝鮮併合以来、朝鮮の伝染病対策も朝鮮総督府が責任を持つことになった。その政策は、日本で行なわれた政策に較べてかなり強権的で、警察による一方的な支配に基づき、地方自治的な組織による伝染病対策という政策は殆ど行われなかった。また、日本が朝鮮の医者に対してとった態度は、日本における政策を踏襲したもので、中国由来の伝統医学を軽蔑・禁止し、西洋医学だけを正統な医療として認めるものであった。当時、朝鮮には西洋医学を修めた医者が非常に少なかったので、伝染病対策は、植民地政府による政策を朝鮮人に一方的に押し付けるものになっていた。街路の清掃やし尿や排水の処理など現地人の参加が必要なものではなくて、検疫やワクチンといった、一方的に強制することができる政策が中心になったのも、このあたりに理由があるのだろうか。1920年には、ソウルの住民の1/4がワクチンを受けたという。ちなみにコレラのワクチンが実用化されて1916年に東京で広く使われたときに、寺田寅彦はこれはまだ安定しないテクノロジーであるとして接種を拒んでいる。

1920年の流行のときに、ソウルで朝鮮人を避病院に収容するときのこぜりあいをきっかけにして、朝鮮人による伝染病院を作る計画が持ち上がる。これは朝鮮人にとっては民族運動であった。しかし、この病院の大きな特徴は、朝鮮の伝統医学に基づいた治療が行われることであった。西洋医学を近代化の福音と考えて、植民地支配を正当化する一つの道具だと考えていた日本政府は、なぜかこれに積極的に反対しなかった。結局、病院設立のための資金は十分に集まらず、この計画は立ち消えとなって集めた資金はアメリカのミッション系の病院に寄付されたが、これは強権的な植民地支配と西洋医学独占に対する一つの民族的な代替案を出した、重要な事件である。