栃木のコレラ


明治コレラの民衆史の論文読みが続く。文献は、大嶽浩良「栃木県におけるコレラ騒動」『宗教・民族・伝統-社会の歴史的構造と変容』地方史研究協議会編(東京:雄山閣、1995)、247-269.

明治12年のコレラ大流行は栃木県にも波及して患者784人の被害を出した。この年の全国患者数は16万人だから、被害は比較的小さい。8月1日に初発患者が出て以来の伝播の経路を見ると、商品流通の幹線であった鬼怒川や渡良瀬川・思川などの水系沿いの村や町で、東京帰りの船の乗客や船頭が発病し、そこからさらに感染が広がっている。

明治12年のコレラは関東北陸の各地で<民衆の騒動>を生起せしめたが、栃木県も例外ではない。騒動が激化した一因は、例によって「避病院に入ると生き胆を取られて殺される」という流言飛語だが、栃木県ではこれはちょっと面白い形を取った。同年に、元アメリカ大統領で南北戦争の英雄であったグラント将軍が来日して、日光で公債をめぐる交渉のために日本政府の高官たちと会議をしているが、この事実と衛生政策(特に避病院)への不信が融合して、「避病院では生き胆をとってそれを公債のかたに外国に売りつける」というヴァリエーションを生んだ。もちろん根も葉もないでたらめだが、別の見方をすると、避病院恐怖は「迷信に凝り固まった」という表現から想像できるような固定したものではなくて、現実の状況を取り込んで形成される可塑性を持った言説であるということができる。

他の論文と同様に、この論者も村の上層部である豪農層と中小農民の亀裂を強調している。豪農層は経済力、比較的広い情報収集能力、そして時代の風がどちらに吹いているかを察知する能力を持っていて、国と県の政策に協力する態度を見せていた。後に渡良瀬川足尾銅山事件で有名になる田中正造などが関与した『栃木新聞』などの自由民権派は、村の共同体が行った伝統的な治療儀礼を否定軽蔑し、国と県の「近代的な」施策を肯定してそれに積極的に協力すると同時に、その近代的な施策を村レヴェルの自治組織が担うような衛生のあり方を提唱していた。これは村の上層部の豪農たちに支持されていった。コレラは、村の上層部を衛生行政に関して国や県と協力するように取り込む仕組みを作ったのである。民権派の存在は後の衛生行政の構造を作るのにクルーシャルな役割を果たしたのである。

画像は本論文より。栃木県のコレラ伝播と避病院設立の図。