幸田露伴『一国の首都』

 必要があって、幸田露伴が明治32年(1899年)に書いた東京論を読む。大岡信の解説がついている岩波文庫の『一国の首都』。この解説もそうだが、最近の岩波文庫の解説は、古典端正な学問的・書誌的な情報が足りないものが多くなったような気がする。まあ、そういう情報が欲しい人は全集を読めということだろうけれども。

 明治維新の勝者として乗り込んできた薩長の俗悪な権力者によって、東京は無形の堕落を被っていると露伴はいう。江戸から東京に変わって確かに文明は進歩したが、それは有形のものだけの進歩であって、無形のものについてはむしろ堕落がある。江戸っ子が江戸を愛したようには、東京っ子は東京を愛していない。「べらんめえ、江戸っ子だい」という啖呵には、江戸っ子だからそんな卑しい真似はしないという矜持が込められていた。「拙者も武士でござる」という台詞が、武士と自己の双方の尊厳を確認するための言葉であったのと似ている。それに対応するような台詞を、露伴の時代の東京っ子は持っていない。(もしかしたら、現在でもないのかもしれない。)無形に堕落した東京を、日本の首都として諸都市の範となさしめ、世界に誇るに足る都市にするにはどうしたらよいか、広範な領域にわたって論じた書物である。

 衛生についても露伴はかなりのページを割いている。(88-96ページ)水道は引かれたが、水源の農民たちがコレラ患者の汚物を上水支渠に投入するなど、いまだその安全は不完全であるとして、水源の清浄を確保することの必要を説く。衛生上より重要なのはむしろ下水である。(屎尿処理はまた別に論じられる。)本所、深川、下谷、浅草には、各地に「卑湿の地」があり、晴れの日でも下水溝には汚水が溢れて臭気を発し、土地は乾燥することがない。雨が降れば汚水は下水溝から溢れて街路に氾濫する。露伴によれば、これは自然地形ではなく人為の問題であり、吝嗇と怠慢の産物である。江戸はもともと海岸を埋め立てて下水溝を通してできた街であり、隅田川の下流であるが溝渠が縦横する日本橋区は乾燥しているのに対し、その上流である浅草の各地に卑湿の地があるのは、ひとえに溝渠を通す費用と手間を惜しんでいるからである。このような卑湿で不衛生な地を各地に残しておいて、それが首都の尊厳に値するだろうかという論調である。