暗黙知

 必要があって、マイケル・ポランニーの『暗黙知の次元』を読む。高橋勇夫が新訳したちくま文庫版。学生時代に読んだ本なのだけれども、内容はきれいに忘れていた。

 全体としては壮大な議論だけれども、欲しかった議論は冒頭近くで展開されている出発点にあたる部分。我々は言語に置き換えることができない認知をしている。ある人の顔を知っていれば、その顔を1000人の中から簡単に見分けることができる。しかし、その顔の特徴などを言葉で言い表すことはできない。あるいは心理学で「閾下知覚」というそうだが、それと確かに認知できないし、説明できないけれども、「分かっている」ことというのがある。被験者に多数のでたらめなつづり字を見せ、いくつかの特定のつづり字の後では電気ショックを与えるという実験をすると、被験者はまもなくそれらのつづり字を目にするだけで、ショックを予期する兆候を示す。ところが、被験者に質問してみても、どれがそのつづり字なのか見分けはついていなかったという。これも「暗黙のうちに知っている」という意味での暗黙知である。

 この実験や、同様な実験から、ポランニーは暗黙知の基本構造を引き出す。電気ショックという条件に注意を払った結果として、特定のつづり字についての説明できない感知をするというのだ。ここには、私たちから「遠い」条件(ショック)への注意と、私たちに「近い」条件(つづり字)の感知という、二つの条件がある。前者には明確に注意が払われているのに対し、後者はあいまいにしか説明できない。しかし、そのあいまいな感知から出発して、我々の注意を別の刺激に明確に向けて、後者の中に前者を感知するという構造がある。別の例で説明すれば、手に持つ道具を使って、手の感覚から道具の対象へと注意を向けるという知覚にも、同じ構造がある。ポランニーは「さぐり棒」の例を出している。最初はその棒が手に与える感覚ばかりが前景に出て感知されるが、そのうち、棒が触れている物体に注意を向けることができるようになる。身体に近い現象を暗黙知として、その先にある対象を明示的に知ることができるという構造が、ここにもある。

 ある人には話したことがあるけれども、このポランニーの洞察を、患者の健康行動・受領行動の分析に使うことができないかと思っている。私たちは身体の不調や痛みを感じる。そのときに、身体の不調の先にある治療手段に注意を向けて、身体の不調を感知しているのではないかということである。 逆に、治療手段がないときには、身体の不調を感知する能力が下がるのではないかという仮説をたてて、さあ、何をどう議論すると、この仮説を実証したことになるのかというところで、途方に暮れている(笑)。


 私が考えている問題と、ポランニーの暗黙知の概念がフィットしていないような気がするし、もっとフィットする理論的な装置があると思うけれども、急ぎの仕事ではないので、気長にアイデアが浮かぶのを待とう。(また研究の話を書いてしまった・・・笑)