ブリアト・モンゴルの梅毒研究

1928年にドイツとソ連が、バイカル湖の東に広がるブリアト・モンゴリア自治区において共同で行った、梅毒研究を分析した論文を読む。文献はSolomon, Susan Gross, “The Sovit-German Syphilis Expedition to Buriat Mongolia, 1928: Scientific Research on National Minorities”, Slavic Review, 52(1993), 204-232. 帝国主義と科学の歴史の研究に分類できるけれども、事例がすごく面白くて、必読文献である。 

1928年にドイツとソ連は共同して、ソ連の自治区であるブリアト・モンゴリアにおいて大規模な梅毒のフィールド・リサーチを行った。当時のヨーロッパの二つの嫌われ者国家が共同研究を行った背景には、両者の利害の一致がある。第一次大戦で全ての海外植民地を失ったドイツは、医学研究、特に人種医学研究の素材を提供してくれる、多くの民族が居住するソ連の中央アジア地帯は魅力的だった。ソ連の医学者にとっても、国際社会から孤立しがちであったがゆえに、当時のドイツの医学とのコネクションは有難いものであった。両国はウラルのらくだの病気、キルギスの結核などを共同で調べたが、その中でも28年の梅毒研究は最も大規模なものであった。

共同研究ではあったが、ドイツとソ連の学者たちは全く違うアジェンダを持って研究に臨んでいた。ドイツの学者たちの中心的な関心は、治療薬(サルヴァルサン)が使われていない地域では、梅毒はどのような疫学的な形態を取るかということであった。ハイデルベルクの精神科クリニックの所長のカール・ヴィルマンスは、サルヴァルサンが用いられている地域の梅毒は、皮膚よりも脳や神経を侵すようになるという、梅毒の変態(メタバイオーシス!)を唱えて、ブリアトの実験を、その仮説の実証のために使おうとしていた。(この仮説を支えるデータは出てこなかった)一方でロシアの学者たちにとっては、サルバルサンの副作用よりもその効果の方が大切だった。また、ロシア人にとっては、同地の民俗が梅毒で絶滅するのではないかという恐れ、そしてその蔓延のメカニズムを明らかにすることのほうが大切だった。後者の目的のために、当地の農民の性風俗が研究され、未婚の男女の性交渉の様子が明らかになったが、ソ連の「無垢な農民」のイデオロギーに従って、これは堕落した情欲というより、自然な欲望に基づいた性交だと捉えられていた。

 急速に使われた新薬による病気の変態を研究するコントロールと、社会主義国家建設のための農村の人口のイデオロギー的な研究、両国が持っていた二つの関心が、中央アジアで出会った、というか、すれちがった、共同研究だった。