イングランドの医療行政

 17世紀前半のイングランドの医療行政 (medical police)の歴史を概観した論文を読む。文献は、Cook, Harold J., “Policing the Health of London: the College of Physicians and the Early Stuart Monarchy”, Social History of Medicine, 2(1989), 1-33.

 18世紀の絶対主義的な啓蒙専制君主制度とともに、国王(国家)が臣民(国民)の健康を保護するために、科学・医学に基づいた政策を行うという「医療行政」のモデルが現れたのは有名である。では革命以前の絶対主義的なイングランドでは医療行政はあったのか、あったとしたらどんなものだったのか。 

 イングランドが絶対主義への傾斜を強めていたチャールズI世時代においては、やはり大陸と同様に、臣民の身体を健康を守ることは、子供に対する父親の義務になぞらえられた王権の義務であるという思想が強く現れた。これが最も強く現れたのが、医療の規制とと疫病対策の二つの領域である。前者においては、患者を満足させる限り、誰でも自由に医療を提供できるというコモン・ローの前提が否定されて、王権と結びついた王立医師協会は積極的に非正規の医療者を取り締まろうとした。後者については、自治を認められていたロンドン市に対して、王権は王立医師協会と協議して外国の施策から学んだ対策を行うように指導するようになった。これらの方策は、革命期には、自由に対する王の越権として批判の対象となった。名誉革命で、王権に対する一定の制限が認められて定着したことは、イギリスで絶対主義的な医療行政が長いこと発展しなかったことを意味した。