ちょっとしたインスピレーションが欲しくて、「パンをめぐる幻想」のような歴史書を読む。文献は、Camporesi, Piero, Bread of Dreams: Food and Fantasy in Early Modern Europe, translated by David Gentilcore (Cambridge: Polity Press, 1989).
ピエロ・カンポレージほど型破りな歴史家はちょっと思いつかない。ペガサスが空を翔けるような文体で語られる、初期近代ヨーロッパの肉体と幻想の歴史。実証などということを、はなから考えていない問題設定。一つか二つの断片的な事例で巨大なテーゼを支える無謀さと怠惰さ。しかし、その事例から解釈を引き出すときの、芸術的なまでのエレガントさ。そしてそれらの事例の背後にある途方もない博識。日本語の翻訳がいくつか出ていて、それを読んだときには苛立つだけだったが、英訳で読むとカンポレージの洞察はなんて詩的なんだろうと思う。(これは翻訳者の技量の問題でなく、私の個人的な事情の方が大きいと思う。念のために書いておく。)
この書物は初期近代ヨーロッパの「パン」と幻想の歴史である。パンについての幻想を論じた部分もあるが、一番の白眉は、初期近代の農民を定期的に襲った飢餓という生理的な現実を記し、カロリーを使い果たす日々の重労働がもたらす疲労と飢えを満たすためのパンを論じ、ケシの種などの苦痛を癒す意識変容作用がある植物などをまぜたパン-忘却と夢想のパン-を論じた部分だろう。ケシの種に限らず、苦痛と飢えを忘れて一時の意識の変容を経験できるハーブ類はヨーロッパで広く知られていた。ペルーのコカの葉のようなものである。
こういったハーブ類を混ぜた忘却と幻想の一皿がサラダである。「人工天国」(!)と題された章は、サラダを次のように論じている。
<サラダというおどろくべき創造物は、色々なハーブの神秘的な力を混ぜ合わせた宝石箱であり、快楽主義と薬物学を中に封じた小さな宝物であった。サラダは、その場限りのわざを駆使して、過剰なまでに気取った趣向をこらした小さな傑作であり、サラダを作るのには、薬剤師の処方箋のように、操作する技術と、無限に変化する結合術のどちらにも通じた鋭い洞察が必要なのである。>
「快楽主義と薬物学を中に封じた小さな宝物」 ・・・ 実はこの箇所の英語はよく意味が通じないので、必ずしもこの訳が最適かどうか分らない。でも、この表現は私がサラダについて持っていた意識をすっかり変えた。今夜のサラダは、トマトとルコラとオリーブオイルとお酢とマスタードと胡椒。そう思って食べたら、快楽主義と薬物学の味がした(笑)。