文明の病としての結核

 未読山の中から、結核の死亡率の変動のパタンが、20世紀の帝国主義の文脈の中でどのように解釈されたかを論じた論文を読む。文献は、Harrison, Mark and Michael Worboys, “A Disease of Civilization: Tuberculosis in Britain, Africa and India, 1900-1939”, in Lara Marks and Michael Worboys eds., Migrants, Minorities and Health (London: Routledge, 1997), 97-124. 帝国主義医学の第一人者である二人の研究者が共同で書いた傑作。帝国主義医学の歴史研究を超えた必読の文献である。

 結核の死亡率が歴史的に変化するパターンは、先進国と旧植民地の開発途上国では大きく違っていた。先進国においては、結核死亡率は徐々に増大して1900年近辺にピークに達してそれ以後は下降していくのに対し、旧植民地においては、もともとは低かった結核死亡率が1920年から30年代にかけて上昇していく傾向が顕著であった。

 20世紀の前半に、この事実に気がついてそれを解釈した欧米の医者たちは、かつての比較的単純な病気と社会のモデルとは違うものを構築しなければならなかった。コレラに代表される急性感染症であれば、病気と未開状態を単純に同一視するモデルで説明できる。(少なくとも、そのように主張するカルスタ系の研究者が多い。)コレラの大流行の起源であるインドに象徴される未開の地域は、恐ろしい病気が蔓延する危険な空間である一方で、欧米から見ると、コレラは外部の他者からやってくる病気ということになる。言葉を換えると、コレラを通じて病気と文明の関係を理解する限りでは、文明を病気の不在と同一視することができた。しかし、結核に関して当時のデータが示したことは、植民地と欧米との接触が密になり、植民地が文明化されればされるほど、その住民が結核で死亡する割合が高くなることであった。

 20世紀前半の欧米の医者たちは、この現象を説明するのに、自国での観察で得られたデータや、当時メチニコフらによって発展せられていた免疫の理論や、多種多様な論客がいた遺伝・人種の理論などを用いていた。この論文が焦点を当てているイギリスの医者のクミンズが、最初に結核に着目したのは、1900年代に軍医としてエジプトに滞在したときに観察した、エジプト出身の兵士とスーダン奥地出身の兵士との違いであった。前者はヨーロッパ人の結核と似た症状を示すのに対し、後者はより急性で拡散した形の結核の症状を示す。クミンズはこの観察を元に、疾病処女地 (virgin soil)の概念を発展させた。文明が未発達の地域は、いまだ結核菌に触れていないからこそ、その病気に対して脆弱な社会となっているのである。言葉を換えると、文明が進展すると、いったんは結核の死亡率が高まるが、それが長く続くと徐々に抵抗力がついてくるという、「時間」の軸を加えた山形曲線を持つ文明=病気観の登場である。

 マクニール(『疾病と世界史』)やクロスビー(『ヨーロッパ帝国主義の謎』)で有名な<疾病処女地>の概念が、帝国主義医学に起源があったということも驚いたが、それ以上に、この概念が初めて現れた当時の様々なインパクトも面白かった。例えばアフリカの金鉱山などのように、疾病処女地からの移民労働者に頼らざるをえない開発拠点での結核予防を考えるための知的な装置にもなった。欧米の結核撲滅キャンペーンにこの概念が与えた影響も面白かった。結核菌と接触しないことを金科玉条としてきた撲滅キャンペーンにとって、結核菌との接触は逆に抵抗力をつけて結核を克服する第一歩であるとみなすこの概念は、結核撲滅のプログラムを新しく概念化することを要請するものであった。あるいは、欧米を結核との最初の接触から時間が経過した「大人」と見做し、アフリカなどを「子供」とみなす考え方との共鳴も面白かった。