『イワン・イリッチの死』

 必要があって、トルストイの短編『イワン・イリッチの死』を読む。色々訳はあるだろうが、岩波文庫版を読んだ。

 1886年に出版されたトルストイの晩年の傑作の一つ。英語圏、特にアメリカで医学部の専門科目として定着している「医学と文学」という科目の中では、古典中の古典の地位を占めている。話の六割くらいを、主人公であるイワン・イリッチの病気と直接関係ある話が占める。病名は明示されていないが、少なくとも現代の読者が読むと、ガンを想起しない人はいないだろう。盲腸炎だとか腎臓遊離症だとか言われながら、わき腹の疼痛が次第に悪化して、主人公を長い苦痛に満ちた死に至らしめる病気である。

 話は有名だろうから簡単に。主人公のイワン・イリッチは、子供時代から周囲の期待に合わせて人生を成功させてきた。学業優秀で官僚になってほぼ順調に出世して快適な暮らしをしている。前途有望な官僚が結婚するべき女性と結婚したが、妻はヒステリー症で不仲と諍いが絶えず、彼女の口臭と性欲はいとわしかった。しかしイワン・イリッチの出世と収入と彼のプラグマティックな賢明さのおかげで、彼の家庭生活も大過なく申し分ないものだった。しかし、彼が正体不明の病気にかかってから、この「あるべき上品さ」に満ちた生活は崩壊していく。その過程で、彼は(あたり前のことだが)痛みに苦しみ、人間関係は動揺してささくれだったものになり、しかしそれと同時に、これまでの人生を問い直す契機を得る。

 この傑作は一面、教訓的な道徳をいくらでも引き出すことができる小説でもある。看護学科の学生にレポートを書かせると、「真に患者の立場に立ったターミナルケアのあり方について考えさせられた」系の答案がずらりと並ぶだろう。学生だけでなく教員に聞いても似たような結果かもしれない。