北里柴三郎はペスト菌の発見者か

 未読山の中から、ペスト菌の発見における北里柴三郎の役割を論じた論文を読む。文献は、Howard-Jones, Norman, “Was Shibasaburo Kitasato the Co-Discoverer of the Plague Bacillus?” Perspectives in Biology and Medicine, 16(1973), 292-305.
 
 1894年の香港におけるペスト流行時に、ペスト菌が発見された。(1894 クシん(苦心)して見つけたペスト菌)医学史の標準的な記述だと、この功績は、おのおの独立して研究をした二人の細菌学者、すなわち北里柴三郎(1852-1931 コッホニミイ出された柴三郎)とイェルサン(Alexandre Emile Yersin, 1863-1943) の二人に帰されている。二人が同時に発見したのに、ペスト菌には Yersinia pestis とイェルサンだけの名前が冠されていて、北里の名前がそこに含まれていないことから、日本人科学者が差別されていることの現われであると嘆いて、ちょっと差別の被害者を気取る日本人もいる。

 この手の。栄誉がらみの歴史は、アカデミックな歴史学者に人気がある主題ではないけれども、史実はきちんと押さえないといけない。 一般に言われているのと違って、北里は「ペスト菌を同時に発見した」という栄誉を受けるのに値しない、というのがこの論文の主張である。

 1894年の8月、北里は、イェルサンよりも早くペスト菌を発見したことをイギリスの雑誌『ランセット』に報じた。北里が「発見した」この菌が真正なペスト菌であったら、北里は、同時発見者どころか、単独発見者の栄誉に浴したはずである。しかしこの菌についての北里の記述は非常に曖昧で、グラム陽性か陰性か、どのような動きをするのかという、菌の基本的な性格も特定してはいなかったし、後の記述は間違えていた。のみならず、イェルサンの報告の後、北里は、1899年までの5年間にわたって、自分が発見した菌はイェルサンが発見した菌とは違うと、一貫して主張していた。一時、日本の北里派の細菌学者たちは、ペスト菌には二種類あると主張していたほどである。北里自身が、自分が発見したのはイェルサン菌(=真正なペスト菌)とは別物だと主張し続けているのである。

 この論文が論じていない側面に、北里が香港で採取してドイツに送った菌の標本というものがあり、これは真正なペスト菌であったという。いま、資料が手元にないので記憶で書くが、日本の細菌学者の藤野恒三郎は、これを根拠にして、北里が第一報をしたときに「発見した」菌は真正なペスト菌であったことを指摘している。(『日本細菌学史』)しかし、藤野の指摘を認めたとしても、北里は、すぐにその「発見」を放棄して、自分が発見したのは別の菌であったと言っているのだ。北里は、ペスト菌の発見者の一人ではなかったというこの論文の主張は、日本人としては少し残念だけれども、認めざるをえない。

 北里が国際的に偉大な細菌学者であり、日本の公衆衛生・医療行政に巨大な貢献をしたことは、誰もが認めることである。ノーベル賞の候補にも何度も名前が挙がったし、受賞していても何の不思議もなかった。特に、破傷風菌の純粋培養と、ベーリングと共同で行った破傷風血清とジフテリア血清の発見は、医学の新しいパラダイムを切り開く業績であった。しかし、彼はペスト菌の同時発見者ではなかった。

 1899年に日本に初めてペストが上陸したとき、北里は自分の過ちを決定的な形で認めなければならなかった。彼が観察したペスト菌はイェルサン菌そのものであり、彼が主張したように、グラム陽性ではなくてグラム陰性であった。北里はさまざまな欠点を持っていた人間だが、その欠点の中に「卑怯」という特徴はなかったと言って良い。 彼は同年に自分の過ちを公の場で潔く認めている。 東大派の医者たちが、宿敵の揚げ足を取れたとほくそ笑んでいるのを、北里はもちろん承知していた。 

 北里を持ち上げるために、彼がペスト菌の同時発見者であると言う学者がいるとしたら、それは北里自身の学者としての良心を裏切る行為であるような気がする。 


追伸: ヤフーブログに最近付け加わった、投稿すると似た話題の記事を探してくれる機能のおかげで、5つほど北里柴三郎の記事が見つかりました。 その全てに「ペスト菌の発見者」と記されていました(笑) 

追伸2: tomo1970さんのご指摘を読んで、はっと気づきました。 「東大派の医者たちが、宿敵の揚げ足を取れたとほくそ笑んでいる」というのは、当時の東大派の医者に対して侮辱的で失礼であり、不適切・不穏当な表現でした。「ほくそ笑んでいる」を「快哉を叫んでいる」と訂正します(笑)