東京湾の歴史

必要があって、東京湾の歴史を調べ始める。文献は、菊地利夫『東京湾史』(東京:大日本図書、1974)

東京湾は東は房総半島の洲崎、西は三浦半島の剣ヶ崎の二点を結ぶ線より北の海域を指す。南北80キロ、東西は10キロから30キロで、面積は約1500平方キロである。うち、狭義の東京湾である内湾は千葉の富津洲のはしと三浦半島観音崎を結んだ線より北を言う。外湾は浦賀水道をなしている。

 人間による東京湾の使い方が大きく変化したのは、江戸時代である。湾の奥に人口100万人の当時としては世界最大級の都市・江戸が生まれたことは、大人口が安全に居住する陸地を確保すること、そしてその大人口が消費する物資を調達する水運を作ることの二点において、湾のありかたに劇的な変化をもたらした。

 家康は1603年から全国の大名に普請を割り当てて、江戸城とその城下町の建設を行った。山を掘り崩して地面をならし、あるいは堀を掘って、その土を海岸の埋め立てに用いた。一方で港湾を造成し、日本橋川を中心に、船入堀を掘り、両側には問屋が立ち並んだ。1657年の大火のあとも、埋め立てと港の造成を行い、水際には問屋が立ち並んだ。 

 一方で、利根川や渡良瀬川などの東京湾に流れ込んでいた川を大土木工事によって付け替え、利根川は太平洋に注ぐことになった。この治水は江戸の市街を水害から救い、利根水系、荒川、江戸川などは関東一円や東北の物資を江戸に送る水運となった。東北の物資は、銚子で海運から河川の水運へと積み替えられ、高瀬舟で利根川、江戸川、船堀川、小名木川などを経て江戸へと送られた。東京湾の沿岸には、東に船橋、検見川、寒川、登戸、浜町、木更津、富津、竹岡、勝山、館山など、西には神奈川、横須賀、走水、浦賀などの港が作られた。 

 東京湾はすぐれた漁業地でもあった。17世紀には、関西からすぐれた技術を持った漁夫が出漁し、あるいは移住したので、東京湾の漁業は急速に発展した。東京湾は九十九里浜と並んでイワシ漁業の本場であり、干鰯という重要な肥料の原料であったイワシは貴重な商品であった。この漁場のまわりに、内湾の東には四十四浦、西には四十浦の漁村・港が密に分布していた。1816年に神奈川参会が開かれ、漁村の間での操業などの取り決めが行われたときには、四十四もの漁村が参加したという。これは明治になっても、内湾漁業組合、のちの東京湾漁業組合として漁業の統制を続け、明治14年には、東京府の二十八町村、千葉県の六十一町村が組合に参加していた。明治期は湾の東岸の千葉県の港町・漁港の黄金時代であり、県庁所在地の千葉町の寒川や登戸は漁業や東京との交通で繁栄した。しかし、明治後期の鉄道敷設によって、千葉県の重心は、水際から鉄道沿いの内陸へ移っていくことになる。

 今日の文章は、なんかいつもと違うな・・・(笑)