東京湾とコレラ

 東京湾とコレラのリサーチの続き。『大正十一年コレラ病流行記事』を読む。以下、私自身の研究上のアイデアが含まれて入ます。

 T11年に、東京は184人のコレラ患者(うち死亡は113人)を出した。かつての大流行には程遠いが、T5年以来のコレラの流行である。この年は、全国で738人の患者(うち死亡423人)が出ており、東京は患者数で一位であった。
 
 この年の流行は、福岡に端を発して西日本の一府七県を侵した系列と、千葉に始まって関東・東海・東北を侵した系列の二つに分けて考えることができる。日本のコレラ流行の後期は、単純に西から東に移ったのではなく、九州-瀬戸内海-大阪という水運系統と、それに後発しやや規模が小さい東京湾を中心とする水運系統の二つのシステムがあったと考えるのが正しい。1900年以降のコレラの流行は、西日本システムと東京湾システムの二つを中心として発生し、その間に挟まれた愛知・静岡などの東海地方ではコレラの被害は小さかった。 鉄道を中心とする陸上交通システムに依存した伝播よりも、水上交通システムがまだ優勢であった。

 福岡にはじまる流行も、千葉に始まる流行も、主軸となったのは漁業であった。福岡からの伝播は、島根には博多方面で操業した漁民によって流行がもたらされ、山口には長崎方面で操業した漁民がもたらした。千葉の銚子は、茨城、静岡(焼津港と伊豆の諸港)、愛知、福島への伝播の起点となった。岩手、青森、宮城への伝播は、銚子との直接の関係は明白でないが、いずれも漁師を通じた伝播であった。
 
 東京でのコレラ発生は、10月1日から16日までの二週間あまりのごく短期間に患者が発生している、当局の言葉を借りれば「爆発的な発生」であった。これは、銚子から移入された魚類を食べたことによる直接の発病が多かったことを意味すると流行記事は解釈しており、おそらくこれは正しいだろう。裏を返すと、かつての大流行のような連鎖的な発生がごく少なかったことも意味している。
 
 感染の連鎖を断ち切ることができた理由は、発生時期が10月と比較的遅く、コレラ菌の繁殖のスピードが遅かったということもあるが、より大きなものは、市当局と区による大規模な防疫活動と、市民の迅速で適切な対応であった。市は市内での患者発生を知るとすぐに、広報活動にはいり、患者発生の10月4日には2000枚のポスターが市内の電車などに張り出され注意を喚起した。予防注意書は50万枚印刷されて配布され、区役所を中心に、衛生組合、青年団、小学校の校医などが魚類に注意するように呼びかけた。伝染病研究所と北里研究所が製造したコレラ予防液と称されたワクチンも、迅速に接種された。市は、七版にわけた直営注射班を組織し、患者が出た翌日の10/2日から16日までの間に一万六千人にワクチンを注射した。区において行われた予防接種は100万人以上であり、合計するとごく短期間に113万人がコレラ予防液の注射を受けた。これは当時の東京の人口の実に52%にあたる。 
 
 市や区の活動だけでなく、自発的な防疫活動も顕著であった。その中でも特に魚市場組合の迅速で徹底的な防疫への協力は、東京市の衛生課によって「特記されるべきである」と高く評価されている。日本橋の魚市場組合は、千葉の漁業関係者に患者が発生した報を受けて、10月1日には、銚子港などの魚類運送店に対し、魚荷の荷受を拒絶するむね連絡し、市内で患者が発生した二日後の10月3日には、臨時総会を開いて、10月5日から9日の五日間にわたって臨時に市を閉鎖することを決定した。危険とみなされた魚類を消毒のうえ廃棄し、取り扱い場を消毒し、取扱者の健康診断も行った。廃棄した魚類は、2400貫(9トン)で時価7万2500円にのぼった。 

 大正5年の流行は、マニラで乗員がコレラに感染した船舶が、神奈川県の長浜の検疫所で停泊していたところ、船中の患者が吐しゃしたものを7月20日に海中に捨てたことから始まるとされる。その日は暴風で、船酔いで吐いた乗客が多かったので、コレラの危険は気に留められなかったという。この事態に気づいた当局は8月3日より海水浴場を遊泳禁止にし、沿岸の漁業を禁止したが、これらの禁を破るものが多かった。流行記事が「頑迷の徒と窮民が縷々禁を犯し」という表現をとっているところから察するに、海水浴客だけではなく、漁の禁止がすぐに生活を脅かす貧しい漁民も含まれていたのだろう。8月10日に、この吐しゃ物によって汚染された海から伝播した最初の患者が横浜市に現れる。それは横浜港でとれたエビを食べた患者であった。これ以降、東京湾を中心にした水系を縦横にまたがった伝播が始まる。

 まず、千葉の船橋の漁師が8月の13日に発病する。これは7月末以来横浜方面で操業していた漁船であった。8月18日以降には、木更津、竹岡村の漁業者が、横浜沿海で操業した後にコレラを発症する。一方、この千葉の漁業者に発生したコレラは、その漁船たちが大森に停泊していたときに川を汚染し、その川の水を用いた大森の住民にもコレラ患者が現れた。8月の下旬には、東京市を挟み撃ちにするように、千葉と横浜・大森にコレラが発生していたのである。

 東京市は羽田、月島、相生橋上流、江戸川前などでの船舶検疫を行ったが、ついに8月24日に市内に侵入した。その侵入は三つの経路からほぼ同時に起きた。一つは大森から石炭を運んだ船の荷揚げをしていた人夫である。彼は大森から来た船から水を貰って飲んでおり、これが感染の原因だとされている。もう一つは、船橋から行徳を経由して入ってきた経路である。1590年に開削された人工河川である小名木川は、隅田川と江戸川を結ぶ重要な運河であったが、この運河を東京と千葉を往復していた船の火士がコレラを発症した。同日に行徳でコレラの患者が一人現れたことは、東京の患者が、行徳経由で千葉と隅田川を結ぶ内陸の運河の水運システムを通じて感染したことを示唆している。もう一つは、大阪で感染した患者が汽車で東京に来て発症したケースであり、これは現在の議論には関係ない。すなわち、横浜と千葉を往復しながら大森にたどり着いた病毒と、千葉から内陸の運河を通って東京の水運に入った病毒の二つが重要であった。

 この漁民と海上・水上交通が媒介した病気であることは、患者の職業と地域分布にも見て取ることができる。この年の流行は、漁民を筆頭に、汽船、船舶、陸上の人夫、運送業者などを起点にして、その家族などへと広がっていった。それゆえ、コレラ患者は水路と溝渠が多く、水運業者の出入りが頻繁な深川、京橋、日本橋などで多く、職業としては漁民、水運人夫などが多い。