山崎佐『日本疫史及防疫史』

 必要があって、日本医学史の古典の一つに目を通す。文献は、山崎佐『日本疫史及防疫史』第二版(東京:克誠堂、1939)

 日本の医学史研究にも富士川游や山崎佐といった偉大な先達がいる。現代の研究者の多くは、彼らの仕事を、インスピレーションやヒストリオグラフィを求めて読むというより、事実の宝庫として読んでいると思う。彼らの歴史のスカラーシップは、量は膨大だけれども無味乾燥な事実の羅列でナイーヴな進歩史観に基づいていると、現代の若手の医学史家に小馬鹿にされることが多い。告白すると、私自身内心密かにそう思っていた。しかし、気がついてみると、彼らのスカラシップの背景には、意外な時代性がある。しばらく前に、富士川游の全集に入っている医療類似行為を論じた短い文章を読んで、ちょっとはっとした。富士川や山崎はただの書誌学者ではなく、同時代の医療のあり方についてのかなり明確な意見、それもかなり面白い意見を持っている。

 山崎は、例えば伝染病の防疫について、意外なことを言っている。山崎によれば、流行病の予防法として、かつての医学や宗教の思想に基づいたものは長いこと幼稚な段階にとどまっていた。これが進歩し始めたのは、蘭学の振興期であった江戸の後期であるという。あまりに露骨で一面的な西洋医学の信奉と進歩史観にげんなりして、このあたりを読み飛ばす学者もいるだろう。

 しかし、山崎は、西洋化以前の医療体制・特に防疫体制を非常に高く評価している。山崎が評価するのは、それぞれの時代における医学の知見が、「一般民衆の生活の基調になっていた」ということである。宮中の式礼も医学に起源を持つ。民衆の年中行事である、屠蘇、若水、七草がゆ、追雛なども、もともと医学思想に起源を持っている。かつての医学思想は、民衆の生活と一体化していたのである。山崎の言葉を借りると、西洋化以前の医学は「日常生活に取り込まれていた」のである。 

 それに対して、現代の医学は、その内容については確かに進歩している。伝染病の原因などは判明し、防疫の公的な制度自体は詳細になった。しかしこの知見のうち民衆の日常生活に織り込まれたのは、種痘の他には春秋二度の清潔法くらいのものであって、西洋医学は民衆生活に織り込まれていない。山崎は、屠蘇や七草がゆのように、民衆の日常生活に取り込まれた医学を構想していたのである。この構想の中では、過去の医学と民衆の関係は、山崎にとって一つの模範ですらあった。西洋医学を輸入しはじめて100年近くになりながら、まだそれを生活に取り込んでいないという現在の状況は、医学と社会の関係という点から見ると、過去よりも劣っているというのだ。