『女工哀史』

必要があって、細井和喜蔵『女工哀史』を読む。恥ずかしい話だが、この本自体を読むのは初めて。

この書物が単行本化されたのは大正14年。著者本人は労働者で、点々とした各地の工場で、実際に女工たちの生活を同じ目線で経験することができた。この視線こそが、この書物を社会問題のルポルタージュの古典たらしめている。それは疑うべくもない。しかし、その一方で、本書には当時の医学言説がふんだんに利用されていることも事実である。アメリカから輸入された、栄養学とカロリー消費の理論。大阪の乳幼児死亡率を地図上で表現すると、死亡率が高い地域には大きな繊維工場があることに気づくという疾病地理学の利用。そして、もちろん、1913年に出版された石原修の『衛生学上からみた女工の現況』で明らかにされた恐ろしい結核罹患率。ある言葉と動作を自動機械のように繰り返す知人の精神病の例を引いて、職工が精神病になるのは、大騒音という物理的な環境と、隷属的な労働を強いられているからだという観察は、公衆衛生的な調査を要請すらしている。同書の資本主義批判は、かなりの部分を医学的な観察や思考法に負っている。

その一方で、やや意外なことに、女工の心理についての分析は、筆者の女工への軽蔑が透けて見える文言も多い。むろん、世の中の偏見に抗して、女工の弁護をしている箇所も多い。しかし、それと同じくらい、女工への敵意に満ちた箇所もあるのである。例えば、女工の嫉妬深さを論じた次の文章はどうだろうか。

「敢えて女工に限らず、醜女には総じて僻み根性をもった者が多いけれど女工のそれにはまた格別の趣きがあり、その根性悪さと来ては全く『鬼婆』という形容が掛け値なしにあてはまるようなのもいる。(中略)相思の恋人が仲睦まじく紡績町をゆく。すると女工たちはまるで広告楽隊でも通るようにこれを眺めるのである。しかし彼女の眺め方は決して並一様の目つきではない。青く光っているのであった。」

たしかに、これは彼女たちの惨めな境遇が作り出したゆがんだ心理であるという予定調和的なオチはついている。しかし、何も、そこまで言わなくても・・・と思うのは私だけではないだろう。

ちょっとうがった見方をすると、女工の身体の方は資本主義の被害者として同情を呼び起こし、社会改良のテコとなるが、女工の精神は同じ程度の同情に値しなかったということだろうか。資本主義の犠牲であれ、児童虐待の結果であれ、なにかのせいでゆがんだ性格というのは、痛めつけられた身体に較べて、100%の同情を獲得しにくいということだろうか。もうちょっと面白い問題が隠れていそうな気もするけれども。