明治初年の赤ちゃんポスト

未読山の中から、明治初年の大分・日田の捨て子養育院を紹介した資料を読む。文献は高橋梵仙「松方正義と豊後日田に於ける赤子養育仕法」『社会事業』20(1936), No.11, 11-30.

松方正義が大分の日田に県知事として活躍していた時期に、松方の肝煎りで同地に赤子養育院が作られる。これは当時九州地方で「ヘシゴ」(=減らし子)と呼ばれていた、生まれた来た子供を圧殺したり、堕胎する風習を改めさせるための政策であった。この論文では松方の新機軸という書き方をしているけれども、江戸時代の後期から連続している政策なのかもしれない。明治二年に開設された養育館は、圧殺しなければならないような事情の赤子を、親などが連れてくるための施設であった。「棄てる人の名も聞くまじ、その人の姿も見まじ、ただこれを拾ふて育養せん」という、匿名性を保証したコンセプトになっている。これも詳らかにはしていないが、ヨーロッパの捨て子養育院がモデルになっているのだろう。2006年に熊本市の病院が設置して話題を呼んだ赤ちゃんポストとほぼ同じコンセプトである。

この養育館の設立と並行して、それぞれの村にも子殺しと堕胎を禁じ、子供の生命を救うための組織が張り巡らされ、医師や「周旋方」「隠婆」(産婆)などが10名前後ずつ任じられた。堕胎、子殺しや捨子は私生児に多いことに鑑みて、周旋方は、未婚の女性の妊娠に注意し、それが発覚した場合には檀家寺を通じて、堕胎や子殺しの非を説かせ、お腹の子の父親が独身であればこれを女と結婚せしめ、妻帯者であればその貧富に応じて養育館に出金させて子供を引き取った。

私生児スパイと密告(密告者には報酬が与えられた)の網の目を各村に張り巡らせるこの方法が、もし仮に現在の社会で行われたとしたら、そのプライヴァシーの侵害に対して嵐のような抗議が巻起こるだろう。しかし、子供(と胎児)の生命を尊重するためには大人の勝手は許さないという、ある意味では倫理的な首尾一貫性はある。熊本でも、赤ちゃんポストの存在だけが取り沙汰されているが、実はその背後でこんなことをやっているのだろうか。 ・・・そんなわけないか(笑) 

この養育館は、松方が日田を去ってまもなく廃止され、わずか四年間しか存在しなかった。その間に合計184人の赤子が養育された。内訳は男子が57名に女子が127名で、全体の2/3が女子である。女の捨子が多かったのは、当時の男尊女卑ともちろん関係していたと思うが、具体的にはどんなメカニズムだったのだろう。