中世の女医

必要があって、中世の女性医療者の歴史についての古典的な論文を読む。文献は、Green, Monica, “Women’s Medical Practice and Health Care in Medieval Europe”, Signs, 14(1989), 434-473. 20年近く前に書かれた論文だけど、緻密なスカラーシップとダイナミックな議論は、全く古さを感じさせない。

議論のコアはシンプル。「中世の女性の病気は誰が診て、治していたのか?」という問いに対して、「それは、男性の医療者と女性の医療者が、領有をめぐって争っていた問題だった」と答えている。

この議論の背後には、「近代以前には、女性の病気は女性の医療者によって治されていた」という前提がある。この前提によれば、中世は「女性の健康は女性たちが守っていた」黄金時代であり、それが近代になって魔女狩りを通じて女たちは医療者の役割を剥奪され、女たちは男性の医者に支配されるようになる。これは、70年代のフェミニストたちの夢想が作り出した黄金時代と失楽園の神話である。(グリーンはそういう言い方はしていないけれども。)現実の歴史においては、患者によって分業が守られていたというシンプルな図式はない。また、中世の女性の医療者の多くは、産婆など、女性特有の病気などにかかわっていたというのも根拠薄弱な思い込みであるという。例えば、中世のフランスで記録に残っている医療者の中で、約1.5%、数にして121人が女性であり、このうち産婆と記されているものは1/3弱で、残りの2/3は、外科、内科医、「治療者」など、扱う患者の性別が特定されていない記述がされている。(ちなみに、この1.5%という数字は、どんな資料で医療者を数えるかによって大きく変わってくる。何らかの公的な資格を認められたものというと数はぐっと少なくなるが、「医療者」を広く定義するとこの数字はずっと高くなる。)

確かに、女性の性器に触れる機会がある出産そのものは、女性(産婆)の独占状態にあった。しかし、例えば生理不順はどうなのか。母乳の出が悪い状態はどうなのか。これらの問題は、女性の治療者たちと男性の大学での医師たちが、それを扱う権力をめぐって争っていた領域だった。グリーンは、このことを、中世学者らしく、Trotulaと呼ばれる中世の産婦人科医学書の写本の分析を通じて議論する。このラテン語のテキストは、中世の医学教育の中心地だったサレルノで活躍していたトロータという女性の名を冠して、おそらく男性の医者が書いたテキストである。男性の医者が著名な女医の名を冠した産婦人科の教科書を書くことが、厳格な分業ではなく、男性の医者と女医の領分の境界が微妙であることを象徴しているだろう。さらに、俗語への翻訳になると、境界の曖昧さはいっそう明らかになる。ほぼ同じテキストが、序文だけ変えることで、女医向けの書物になったり、男性の医者向けの本になったりしているのである。

この状況を把握すると、コアになる歴史的な証拠の読み方が全く変わってくる。即ち、中世には女性患者は女医(女性の医療者)が診ていたという主張の根拠になっていた、「女性の羞恥心は、私たちの体を男性の医者の目にさらすことをよしとしない」(現代の言葉で言えば、<プライヴァシー>と言うのだろうか?)という言説は、中世の女性患者たちの現実を反映しているというより、女医たちが、女性患者の領有をめぐって男性の医者と争うときの正当性を提供したレトリックになる。一方で、男性の医者たちは、女性の医療者を規制するために、さまざまな法的手段を講じ、書物を通じて自分たちにも産婦人科学の専門的な知識があることを誇示していた。